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白石平野
【しろいしへいや】


県の南西部に位置する平野。広義の佐賀平野の一部。南西部は塩田(しおた)川を境にし,北東部は牛津(うしづ)川を境にする。西方には標高200~350mの杵島(きしま)山地が南北に連なり,この山麓から東方に向かって平坦な沖積平野と干拓地が展開する。杵島(きしま)郡江北(こうほく)町・大町(おおまち)町・白石町・有明町・福富(ふくどみ)町にまたがり,東西約13km・南北約12km,総面積約79.5km(^2)。土地利用は全耕地面積5,402.2haのうち約95%が水田で占められ,米作中心の平野である。当平野は,佐賀平野(狭義)と比較すると種々の相違がみられる。まず,山麓には扇状地の発達がみられず,大部分が標高3m以下の極めて低平な地形をなしている。土壌は安山岩や第三紀層の砂岩・頁岩(けつがん)などの風化土壌で佐賀平野のそれより重粘である。また,佐賀平野の特殊景観をなす溝渠(クリーク)もこの平野のものは小規模で,分布も10分の1程度で水田の中に島とか馬道と呼ばれる小高い盛土がみられる。当平野の西の杵島山地東麓丘陵地には,北方(きたがた)町勇猛(いみよう)山,白石町馬洗(もうらい)の妻山,船野のかぶと塚,有明町稲佐山,竜王山はじめ多くの古墳群があり,当平野の開発が早くからなされたことを知り得る。大化改新後の条里制は当平野でも施行され,長崎本線以西にその遺構が分布し,須古地区には1の坪から36の坪まで完全に坪名を伝える所もある。鎌倉後期になって,有明海沿岸の干拓が盛んになるが,当時の海岸線の位置については想像の域を脱しない。当平野の干拓事業が本格的に始まったのは戦国期から安土桃山期にかけてで,文禄年間に,杵島山麓にある寺の末寺として,牛屋・築切・大井地区に建立が多いこと,また付近一帯の石造物,六地蔵には天文年間のものが多いことから,この地域の土地造成が1500年頃までになされたと考えられる。江戸期に入ると,干拓造成は飛躍的に進展するが,籠(こもり)や揚田(あげた)のつく地名は江戸初期までに,搦(からみ)は寛文年間以後にそれぞれ造成された干拓地につけられたもので,国道207号以東では,多くの干拓堤防の残像が見られる。その顕著な例として,松土井や五千間土井がある。五千間土井は天明年間,藩営の干拓工事として完成したもので,福富町福富から有明町室島の竜王崎に至る堤防である。干拓は藩の施行のみならず,農民たちの組組織によって実施したものもある。組には代表者である舫頭(もやいがしら)を選び,組員は搦子(からみこ)と称した。人名のついた搦はこのような組によって造成されたもので,長右衛門搦・弥五兵衛搦・藤兵衛搦・卯兵衛搦などがある(白石町史)。杵島山地は山が浅く,みるべき水系が発達しておらず,北部の六角川と南端部の塩田川を除けばこの平野には著名な川はない。しかもこの両河川は潮の干満の影響が強く,かなり上流まで海水が逆流するので灌漑用水として利用できない。そのため,新田の開発が進むにつれ農業用水が不足しがちであった。近世初頭成富茂安は永池溜池を掘り,また寛政12年には六角川の左岸近くの山麓部に焼米溜池を築造し,六角川を横断して当平野の灌漑に当てた。このほか福泉寺堤や原田堤などが江戸期に築造され,昭和初期には朝日ダムも造られた。このような努力にもかかわらず夏の旱魃の害をこうむることが多かった。そこで,冬期は水をはって湿田の状態にし,また田の底土を掘り集めて田の中に島を作り,田面を下げて地下水の保持に努めた。近年は井戸水灌漑を行うようになり,深度50m以上の深井戸だけで160穴にも達した。この深井戸による地下水の汲み取りが原因で地盤沈下が各所で起こっている。地盤沈下による被害の進行を防止するため,地下水汲み上げに代わる水対策として,感潮河川である六角川を淡水化する六角川河口堰が構築された。また,筑後川の水資源開発計画のなかに当平野までの導水計画がある。当平野の米は,杵島米・白石米といって遠く阪神地方のすし米として出荷され,うまい米として有名であった。また,この平野の中心部を占める白石町は,昭和40年度10a当たり622kgの米を収穫して,反収日本一となった。当平野では米作のほか,レンコン・タマネギ栽培も盛んで,ともに九州各県をはじめ京阪神・東京・東北・北海道へも出荷している。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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