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馬渡島
【まだらじま】


東松浦郡鎮西(ちんぜい)町,東松浦半島北西部の波戸(はど)岬より西方7kmの玄界灘に浮かぶ島。周囲約11km,面積4.09km(^2),人口856(昭和50年)。呼子(よぶこ)港から14.5km,定期船で約50分の所にある。第三紀層の上を玄武岩類および粗面安山岩がおおう溶岩台地であるが,比較的浸食が進んで谷が発達している。最高点は番所ノ辻と称せられる遠見岳(237.9m)である。島名の由来について「馬渡系図」は「美濃国馬渡庄の住人本馬八郎義俊は白河上皇院政の頃延暦寺僧兵の強訴を防ぎ,冤罪を受け松浦郡に流され,この島に土着,馬渡と称し,斑島(まだらじま)を馬渡島に書き改めた」と記し,また大陸より馬が最初に来たので「馬渡る島」といったとも伝える。「入唐五家伝頭陀親王入唐略記(肥前叢書)」に「貞観三年九月五日向壱岐島,島司並講読師等亦来迎囲繞……左右自波渡(現在の東松浦郡鎮西町波戸)着小島,此小島名曰斑島(現在の馬渡島)云々。於此白水郎多在仍不細更移肥前国松浦郡柏島,……(太宰府ヨリ博多ニ至リ船ニ乗リ壱岐ニ向フハ柏島,波渡,斑島ト進行スベキ順序ノ錯ヒタルハ筆記ノ誤リナラン―肥前叢書)」とあり,白水郎(あま)が居住し,大陸との往来の中継地であったことを示している。こうした地理的位置にあったため,各時代の遺物や遺跡が多く,旧石器時代の黒曜石製の細石器が八尾の辻・切立・馬場ノ辻から発見され,また,縄文時代の黒曜石製の石鏃やサヌカイト製石匙・石斧が馬場ノ辻・馬渡神社西側・田尻浜東斜面から出土している。さらに,弥生時代の土器破片が馬渡神社周辺,海の星学園跡,水源地,城山南麓などに散見された。古墳時代のものとして,馬渡神社境内から箱式石棺が数基発掘された。神功皇后の事跡としては,皇后が新羅遠征の途中立ち寄り,住吉神社を建立し島民とともに武運長久を祈願したという。遣隋使,遣唐使の遺跡としては,島の西南岸に「大臣(おとど)の纜石(ともいし)」という大石がある。中世には松浦党の一員斑島氏が,地頭としてこの島を支配した(斑島文書・有浦家文書)。文永・弘安の両役には,来寇した元軍に対し,斑島氏を旗頭に全島民が防戦したが,全滅の悲運にあった。この時,島の西端,城山に逃げた老婆が矢玉尽き,投げる石さえなくなったとき「石も石,この石一つ」と絶叫して石臼を投げ,これが敵将に当たり見事に斃したといわれ,この伝説の石臼が今に残っている。藩政期に,当島には唐津藩のウマやシカの牧場が設けられ,「松浦古来略伝記」に「馬渡源太藤原久森梶山村白石馬渡島ノ牧番無足三人足軽四人津守無足三人足軽二人」とある。ウマは年に10数頭捕獲されていたが明治3年廃止された。シカについては鹿狩税をつけて願えば同5年まで許可されたが,同8年に死滅した。島内には名馬の鼻・冬の牧・馬場ノ辻・馬込など馬や牧場に関する地名が多く残っている。また,キリスト教の島としても知られるが,寛政年間幕府のキリシタン弾圧のため,長崎の黒崎村の有右衛門らが逃れて土着したのが始まりである。それ以来,国禁のもと極秘のうちに信仰を続けた。当島は本村(ほんむら)と新村に分かれ,本村は仏教徒で漁業・農業を営み,新村はキリシタンで主に農業に従事した。キリシタンが祈りや祭りをする時は,必ず番人を立て本村の仏教徒を警戒し,仏教徒の忌む肉類を食べる時も,厳重に見張り番を立てて,凶作などによる栄養不足を補っていたという。踏絵は全島民が波戸岬(現在の鎮西町波戸岬)や浜辺に集められて行われ,島に帰ってから神に謝罪の祈りをした。葬式も名護屋の竜泉寺の住持を迎え,一応仏式ですませ,夜ひそかにキリスト教の葬式を行った。長い間,隠れキリシタンとして信仰を守り続けてきた信者たちも,明治6年キリスト教が解禁され,天主堂も建てられ,晴れて神への礼拝ができるようになった。この島の集落は南岸低地にある宮ノ本(通称本村)と台地上の新村の2つである。本村は漁業を主とし,塊村形態をなすのに対し,新村は農業を主とし,散村形態をなす。小さな島において,この2つの集落はいろいろの面で対照的である。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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