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六角川
【ろっかくがわ】


武雄(たけお)市西川登町地区と杵島(きしま)郡山内(やまうち)町との境にある神六(じんろく)山(447m)に源を発し,杵島郡北方(きたがた)・大町・江北(こうほく)・白石(しろいし)・福富(ふくどみ)の5か町内を流れ,福富町住ノ江の河口近くで牛津(うしづ)川を合わせて有明海に注ぐ川。1級河川。延長45.3km,流域面積341km(^2)。六角川水系には,長さ5km以上の河川は本流を含め9河川,5km未満の河川は64河川がある。この川の河口から18km地点までの勾配は,2万分の1ぐらいで,以前満潮時には河口から25km地点まで水路として利用された。藩政期,牛津(現在の小城郡牛津町)・六角(現在の杵島郡白石町)・高橋(現在の武雄市)の三大物資集散地が当水系の沿岸にあり,明治28年佐賀~武雄間,同30年武雄~早岐間,同38年鉄道が長崎へ開通するまで河港として栄えた。河港として繁栄した牛津に先がけてにぎわいを見せたのは砥川(とがわ)である。砥川は牛津の西隣,六角川の最大の支流牛津川の右岸にある。旧長崎街道にかかる大橋の西側には,かまぼこ形をした「アラコ」と呼ばれる切石を投下して,河川の浸食を防ぐ船着場があった。満潮に乗って上ってきた白帆船はここに荷を降ろし,荷役たちが,街道に並ぶ商家に運び込んだ。しかし,長崎街道の宿場町牛津の西側に小城(おぎ)藩初代藩主鍋島元茂の命で,寛永年間に牛津新町がつくられ,小城藩の米蔵と船着場の所在地として発展するにつれ,砥川の河港としての機能は次第に失われた。牛津新町は牛津本町と勝(かす)川(現在の牛津江川)で区切られる。文化8年の「小城郡平吉郷絵図」に,新町の南を西流する勝川の南岸に小城藩の年貢米を入れる津蔵,その北側に藩の船着場が見える。牛津は「一(市)は高橋,二(荷)は牛津」とうたわれたように河港商業都市として栄えた。六角(杵島郡白石町大字東郷)は長崎街道の宿場町としても栄えた。享保2年街道の一部が変更され,北方―鳴瀬―塩田のコースから北方―高橋―武雄―川登―嬉野下宿―俵坂峠―彼杵(そのき)(海路)―時津―長崎となった。しかし,この街道は大村藩領を通過しなければならなかったのと,本街道通行の繁雑を緩和するため脇街道を設定した。それは,小田宿―六角宿―高町―竜王崎―鹿島―多良(たら)峠―湯江―諫早(いさはや)―永昌―貝津茶屋―久山茶屋―樋の尾峠―矢上―日見―長崎であり,六角宿はこのころから栄えた。また,「法性院(ほうじよういん)様(佐賀藩4代藩主吉茂)御代より長崎往来と西目御狩之節某宅に被遊……」(六角中郷黒木古文書)とあるように,六角宿は藩主の御立寄所としても機能した。宿場町として旅籠(はたご)屋・茶屋・酒屋などが並び,明治から大正末頃まで,大島屋・越後屋・つた屋・佐賀屋などの宿屋・飲食店・呉服屋・薬店・酒造店などが栄えた。市は高橋といわれたように,武雄市朝日町甘久(あまぐ)字高橋は六角川中流域における水陸交通の拠点であった。ここに市が開かれたのは「寛文十二年壬子,高橋町之市近年始ム当閏六月ヨリ警固之足軽ヲ出ス」(武雄鍋島茂紀之譜)に見られるようにかなり古い。高橋丸という武雄領の警備船を新堀江(六角川の支流武雄川から高橋に至る江湖)に常備して水上交通と盗難防止にあたった。この河港に入荷した物資は榎津(えのきづ)(現在の福岡県大川市)の家具,城島(現在の福岡県城島町)の瓦,熊本県天草の生石灰,熊本県八代の砂利,久保田(現久保田町)の清酒窓の梅,佐賀市厘外(りんげ)の砂糖,嘉瀬川の砂などで,出荷したものは川登・武雄方面からの割木(まき),黒牟田焼,周辺からの青竹などであった。「朝日村誌」に高橋上区~横町・上廿五日市町・下廿五日市町・上五日市町・下五日市町・上十五日市町・下十五日市町・下区~中橋・タンス町・万才町・廿日市町・十日市町・舟手町・新堀津・朝日町・夕日町などの町名が記されている。市の開催には当番町が決められていて,上記の数字の町が担当した。市が立つ頃は,新堀津の宿屋は船頭や買出しの人でにぎわった。これらの河港は,鉄道の開設によってしだいに衰退した。河口近くにある住ノ江港(杵島郡福富町)は古くから港として利用されてきた。文化8年の「小城郡平吉郷絵図」に「隅江渡」とあり,小城郡と杵島郡をつないでいる。「小城郡村誌」の永田村の項に「住ノ江渡 村ノ西南廿三町,字竜王籠ニアリ里道に属ス,六角川ヲ渡テ杵島郡福富村ニ至ル,川幅百五十間,本村並福富村ヨリ渡船一艘ツツヲ出ス,此地汽船碇泊,石炭積入之処」と明治14年ころの様子を記している。幕末から現在の杵島郡北方町・大町町に炭坑が開坑され,この港は石炭の運搬船が盛んに往来した。住ノ江港(福富町)が特別輸出港として開港したのは明治39年,貿易港として認可されたのは大正11年である。その後,上海・香港・マニラなどへ石炭を積み出し,肥料や大豆が満州などから輸入された。当時は税関・検疫所・海上保安庁の分室もあった。大正~昭和の最盛期には3,000~6,000t級の汽船が入・出港し,また杵島炭坑の石炭を積んで六角川を下る100隻近い小型帆船があったという。この港も鉄道の開通,石炭産業の斜陽化そして閉山,住ノ江橋の開通などでその機能は失われた。今は,養殖漁業を中心とする漁港としてその命脈を保っている。この川は,勾配が緩やかで,大潮時の平均干満の差が約6mと干満の差が大きいので,流域は洪水・塩水害の常襲地であった。近年の著名な洪水としては,昭和24年8月・同28年6月・同29年9月・同30年4月・同31年8月・同42年7月および同55年8月などの洪水があげられ,なかでも流域全体でいえば,昭和28年6月・同55年8月洪水は甚大な被害をもたらした。また,古くからしばしば高潮の被害を受けた。洪水によるものよりも被害の程度は大きい。近年の著名な高潮としては,大正3年・同4年・同7年・同10年・昭和2年・同3年・同24年・同31年および同34年の多きにのぼる。なかでも,大正3年の高潮による潮水浸入の被害は約5,000haに及んでいる。一方,この川の下流域の灌漑面積は約8,000haあり,その用水源は溜池・クリーク・深井戸・河川水およびアオ(淡水)取水が複雑に錯綜しているが,用水は極度に不足している。干害は大正年間に5回,昭和に入って同38年までに22回も生じている。また,下流部右岸地域では深井戸による揚水のため毎年2~3cmの地盤沈下が生じ,深刻な問題となっている。流域住民は第2次大戦後,六角川改修促進運動を起こし,その結果,昭和33年に国の直轄河川に編入され,防災ダム・堤防拡幅・護岸強化・水門築造などの保全と農業用水・上水確保などの利用面の基本計画がたてられた。こうして,原始河川に近かった六角川にも,下流高潮地区・本川上流武雄地区・牛津川上流多久地区および牛津江地区に堤防の新設・拡築,川床の掘削および護岸工事などを計画し,さらに河口部に六角川河口堰(かこうぜき)などの工事が進められた。ちなみに,六角川水系のダムをあげると,朝日ダム・天ケ瀬ダム・踊瀬ダム・岸川ダム・谷口ダム・八丁ダム・繁昌(はんじよう)ダム・淵ノ尾ダムなどがある。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7219160