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諫早平野
【いさはやへいや】


有明海沿岸の平野。諫早市,北高来(きたたかき)郡森山町,南高来郡愛野町にまたがる。諫早市を流れる本明(ほんみよう)川沿いの小規模な扇状地・三角州を除くと大部分は干拓によるものである。干満の差の大きい有明海は干拓の適地として知られているが,当地域の干拓の歴史も古く元徳2年にまでさかのぼるとされる。本格的な干拓は17世紀以降であるが,その先駆けをなすものとして天正年間の山崎教清による川内町(諫早市)地先の干拓があり,「天正年間山崎教清位河内町村開祖」の石碑がある。17~18世紀の干拓は主として個人干拓や村請新田が多く,19世紀になると干潟高度が低下し,高度な技術を要するようになったため,領主の直営事業となった。明治に入ると再び民間資本によるようになり,森山町地先の明六開(明治6年着工),十六開(明治16年着工)が代表的なものである。20世紀に入ると愛野町の山田新開の成立(明治26年着工,昭和5年第2工区築堤完了)があげられる。第2次大戦後の干拓として森山町地先の国営諫早干拓がある(同22年着工,同32年干陸,同38年入植)。当初の計画面積は1,510haであったが,第1期事業の390haの完成をみたのみで,第2,第3期事業は長崎干拓計画に吸収されることとなり中止された。干拓地には46戸の入植が行われ,水田酪農協業形態として2グループの共同経営で出発したが失敗に終わった。これらの干拓地の前進は,海岸線にほぼ並行する堤防や水路網形態から,その過程を推察できる。また,干拓地名も時代とともに変化がみられ,中世のものには下り・替が,17世紀に入ると籠(こもり)が多くなり,19世紀に入ると開のつく地名が多くなる。干拓地の大部分は水田であるが,その中に島と呼ばれる畑作地がみられたが,用水の確保が進み姿を消しつつある。この地域の用水源としては溜池(宗方上溜池・宗方下溜池・杉谷溜池など),地下水(国営諫早干拓地)などがあり,特筆すべきものとして本明川の水を半造川の下を通して灌漑を行う底井樋回水がある。青木弥惣右衛門の手になるもので(文化10年完工),現在約400haを潤している。現在の干拓計画としては昭和27年の長崎干拓(干拓面積6,718ha)が漁民の反対により中止となり,同45年には土地造成(4,800ha)と淡水湖(4,734ha)建設の多目的干拓を目的とする長崎県南部総合開発計画に切り替えられたが,諫早湾外漁民や福岡・佐賀・熊本各県の反対で行き詰まり,同57年には諫早湾防災干拓事業へと計画を変更し,同60年10月にようやく3県漁連との間で,事業規模を3,550ha以内とすることで合意に達した。諫早平野は長崎県最大の水田地帯となっているが,諫早市の地理的位置から都市化が著しく,特に国道57号沿いにおいて顕著である。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7219408