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対馬
【つしま】


九州本土と朝鮮半島の間にある島。隣の壱岐島は九州に近いが,対馬は韓国に近い。南北約82km・東西約18kmと細長く,東側は日本海および対馬海峡,西側は朝鮮海峡に面し,中央に湾入した浅茅湾から万関(まんぜき)瀬戸によって南北に分断され,上島・下島ともいう。他の小島も合わせて全面積は709.77km(^2)。緯度は北端が北緯34°42′,南端が34°5′,経度は東端が東経129°30′,西端が129°10′となる。南部の厳原(いずはら)港より壱岐の郷ノ浦港まで73km,博多港まで147km,北の比田勝港より小倉港まで161km,また北西の佐須奈港より釜山港までは50km余で,古来大陸と日本列島を結ぶ海路の要衝として知られた。島は南部が高く,北部がこれに次ぎ,中央部は低く沈降して内海(浅海)となる。地勢は南北の突出部以外は概ね標高100~300m程の低い山地で,細い谷が無数に刻まれて海岸まで迫り,平野部が極めて少ない。海岸は断崖が多いが,中部はリアス式溺谷を形成し,船着の良い入江が多い。地質は大半が第三紀の水成岩よりなり,脆弱な泥岩,砂岩の層であるが,南部の高い山系はホルンフェルスまたは石英斑岩から成り,北部の御岳も粗粒玄武岩からなるように,山の高低は水成岩と火成岩の浸食差による。なお南北に走る分水嶺が中央よりやや東に寄っていることから,比較的大きな川は西海岸に多く,その流域にはいくつかの平野が広がり,農業は古来西面(にしめ)が優位である。全島の88%が山林で,耕地は0.3%程度という本島では,在来農・林・漁の兼業で生活してきた。対馬の名は「魏志倭人伝」に一国として見え,「古事記」「日本書紀」にも大八州の一州として見える。原始時代から縄文土器文化の圏内にあり,早期から晩期までの遺跡が分布し,また弥生土器文化も初期から終末期まで続き,古墳文化に継承され,いち早く畿内王朝の支配に属したことをうかがわせる。外国へ渡る遣使や,来朝した外国の使が本島を通過したことは内外の史料に見えるが,中でも天平8年の遣新羅使は,対馬で詠んだ多くの歌を「万葉集」に残している。律令制では上県・下県の2郡があり,対馬守以下島司がいたが,中世には宗(そう)(本姓惟宗)氏が島主(守護代・地頭など)となり,近世には藩主として連続した。明治4年の廃藩置県後曲折を経て長崎県に所属,現在上県(かみあがた)・下県の2郡と厳原・美津島・豊玉・峰・上県・上対馬の6町に編成され,人口は昭和35年の6万9,556人をピークとして,以来高度成長の波にさらわれてしだいに減少し,同61年8月現在4万8,841人となっている。この間世帯数はわずかながら増えている。対馬の自然と歴史の特色として,日本では対馬にしか見られない動物や,珍しい植生の原始林があり,また外敵の襲来を受け,あるいは外国侵略の基地ともなった遺跡など,重要な文化財が多いことは特筆に値し,壱岐対馬国定公園に編入され,近年国境の島を訪れる観光客も増えてきている。「ツシマ」という名義は津島と「古事記」にあるように,船の着く島と解されているが,「魏志倭人伝」に対馬と録されたことから,朝鮮の史書もこれに倣い,日本の正史もこれにしたがって,対馬と書いてツシマと訓む。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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