100辞書・辞典一括検索

JLogos

19

西浦部
【にしうらべ】


旧国名:肥前

(中世)鎌倉期~戦国期に見える広域地名。肥前国松浦郡のうち。西浦目・西浦とも見える。正安4年6月日の河棚住人秋丸恒安申状案に「五島西浦部内青方四郎殿」とある。西浦部内の地名としては,元応2年10月21日の青方高光和与状案から延徳2年6月11日の青方頼置文案まで多くの文書に「青方」が見え,康永3年4月1日の寂念置文案に「にしうらへあかはま・ミつしり・かわちのあしろ」とあり,同年5月24日の白魚繁・沙弥円心連署契約状案に「にしうらへの内しろいを」,正平12年4月29日の白魚政譲状案に「にしうらへさを」,応永29年5月13日の江道機等連署押書状案に「西浦目之内鵰下(祝言)・尾礼(折)両島」と見え,永徳3年7月13日の宇久覚等連署押書状案は「西浦目人々」にあてて宿浦の屋敷の沙汰について述べている。観応3年10月25日の松浦理契約状案によれば現在の中通島の北端まで西浦部と称されていたらしく,浦部島の西半分を称した地名であったと考えられる。また,嘉暦2年閏9月29日の白魚盛高和与状案には「にしうらめのうちしもうらめ」と見え,西浦部の内がいくつかに区分されていたものと思われる。正安3年6月19日の鎮西探題御教書案に「西浦部地頭青方四郎高家」と見える。青方氏の始祖家高は,建久7年に小値賀島地頭職を安堵された僧尋覚の次男で,尋覚から浦部島を譲られ青方氏を称した。その後,新たに小値賀島地頭となった峰氏の下沙汰職(地頭代官)の地位に甘んじていたが,家高は地頭峰氏に無断で所々を子息に割分譲与している。前述の文書に見える青方高家は家高の孫であり,在地領主として勢力を伸長させていた様子がうかがえる。建武元年8月6日の青方高直申状写にも「西浦目地頭青方孫四郎藤原高直」と見えるが,建武3年4月日の青方高直申状写には「西浦目半分〈峰源藤五定跡事〉」とあり,西浦部の半分が峰氏の所領となっていたことがわかる。青方高直はこの申状で同地を恩賞地として要求し,康永2年4月11日の青方高直譲状案で西浦部は高直の重代相伝の所領であると述べ,貞和6年12月13日の青方重等申状案で重は「西浦目田畠・在家・山野・河海」の安堵を求めているが,西浦部全域に青方氏の勢力が及んでいたわけではない。白魚・佐保は家高の次男弘高を始祖とする白魚氏の所領であったし,観応3年10月25日の松浦理契約状案からは,西浦部をめぐって松浦氏と青方氏が数年来争っていたこと,この時に至り訴訟を止め所領を中分したことが知られる(以上,青方文書/史料纂集)。現在の新魚目町・上五島町・若松町に比定される。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7222115