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玉名平野
【たまなへいや】


県北部,菊池川下流にある平野。行政上は玉名市,玉名郡横島町・天水町・岱明(たいめい)町・長洲町,熊本市が含まれる。国土地理院発行の地勢図には菊池平野と記されているが,一般には玉名平野と称する。菊池川の用水区域を玉名平野の範囲とした場合の面積は49km(^2)(右岸13.8km(^2),左岸35.2km(^2))。東部は金峰山系の二ノ岳および三ノ岳の山麓,北部は花崗岩山塊の小岱山麓に続く洪積台地に接する。玉名の市街地を頂点とする典型的な三角州をなし,南西の有明海に向かって江戸期以来の干拓地が広がる。三角州の北東部には菊池川によって埋積された谷底平野の梅林牟田(左岸)・玉名牟田(右岸)が連なる。この谷底平野には古代条里制の遺構が見られ,周辺の古墳群とともに水田化が早かったことを示す。天水町斎藤山貝塚から出土した鉄斧は,当地の弥生文化が最初から鉄器をもっていたことを物語る。当時,湾入をしていた三角州平野の部分は,多くが近世以降の開発によって陸化された。平野の面積の約70%が加藤忠広の時代以降(慶長16年以降)の干拓地。内陸側の小田牟田(左岸)・大野牟田(右岸)は,自然陸化と加藤清正の水利土木事業(天正17年着手)による土地で,先の干拓地とは質的に異なる。干拓地では新地・開,その内側では牟田の名を付けて呼ぶ場合が多い。左岸の横島新地(横島町)では,外平山(56m)南縁から国営横島干拓の潮受堤防まで約4kmあり,築造年代の明らかな御内家開(寛永10年)以降の干潟の伸長は,十番開(慶応2年)までの期間に222m前進し,年平均9.5m,国営横島干拓潮止め(昭和42年)までをとると,年平均11.6mとなる。明治初期の新地の水田率は,左岸87%(712ha),右岸49%(198ha)で,その割合は著しく異なる。右岸の鍋・下沖洲(岱明町)および上沖洲・清源寺(長洲町)の新地は,明治末まで畑地のほか,塩田として利用された。昭和36年に始まる県営玉名平野土地改良事業に伴い,白石堰頭首工への水利統合が行われ,ほぼ平野全域にわたる4,512ha(うち水田3,815ha)をその受益地区に含めた。最先端の横島干拓(624ha)は同48年に入植,酪農,煙草・藺草栽培など稲作以外の作物を中心とする農業が営まれている。水田地帯ではイチゴ・トマト・メロンなどの施設園芸,有明海沿岸の地区は干潟を利用した貝類・ノリの養殖が盛ん。平野の要に位置する高瀬(玉名市)は,かつて菊池川に沿う河港の町として繁栄し,中国明代の類書「図書編」巻50(欽定四庫全書)にも「達加什」と記されている。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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