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瓜生島
【うりうじま】


迹部(あとべ)島(豊国小史),沖ノ浜(雉城雑誌)ともいう。別府湾南部にあったと伝えられる島。後世の編纂資料にのみ見える。「豊府聞書」に見える記録が最古(豊府紀聞)。慶長元年閏7月12日の大地震で海中に没したと伝えられる(豊後遺事・柴山勘兵衛記・豊後国志・雉城雑誌・豊陽古事談全など)。「豊府紀聞」には「勢家(せいけ)村二十余町北有名瓜生嶋。或又云沖浜町」とあるが,瓜生嶋の名は慶長以前の確実な史料には見えない。また「豊府紀聞」には「其町縦手東西竝于南北三筋成町。所謂南本町中裏町北新町。農工商漁人住焉」とある。「雉城雑誌」には「東西三十六丁,南北二十一丁余,街巷三筋,東西ニ開キ,南ヲ本町,中筋ヲ裏町,北ヲ新町ト号。家数凡千軒,島中威徳寺,住吉,菅神,蛭子(島ノ西境ニアリ)及島津勝久ノ居館等アリ。此地旧府ノ海口ニシテ,諸州ノ舟舶日夜輻輳スルノ大港也。此島旧府ノ西北三十一町四拾間,今ノ勢家町(大分市勢家町)ノ北,二十余丁ニ在リ,北ノ方,速見(はやみ)郡ノ地ニ拾九丁余」とあり,「豊陽古事談」所載の瓜生嶋図によると,府内(大分市)からワタシ2丁半で瓜生島(沖ノ浜)に渡り,さらにワタシ8丁でその北西の久光島と結び,別府へ結ばれている。瓜生島や久光島(明治40年の「豊国小志」などの所載図では,久光が半島として別府市浜脇(はまわき)から突き出している)は,府内~別府間の交通の要地として描写されている。明の使節,鄭舜功の記した室町期の「日本一鑑桴海図経」には,府内沿岸は遠浅で船が停泊できなかったとあり,府内から4kmほど離れた瓜生島(沖ノ浜)に停泊しなければならなかった事情を物語っている。また「豊後国志」の威徳寺(現在大分市勢家町2丁目)の項に「初め沖ノ浜に在り,故に瓜生島道場という。慶長災後八年,第五世周安,さらにここ(勢家村)に移す」とある。府内領主早川長敏は,被災の島民に衣服や米銭を与え勢家名に仮屋を建てて住まわせ,沖ノ浜の旧名をとって沖ノ浜町としたという(雉城雑誌)。現在島の存在を確かめる調査が進行している。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7229102