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徳丸名?
【とくまるみょう】


旧国名:豊後

(中世)南北朝期~戦国末期に見える名(みよう)の名。豊後国大分郡高田(たかた)荘のうち。大野川と支流乙津川にはさまれる中洲の南部大野川寄り。大分市大字下徳丸・丸亀地区。洪水の常襲地であり,輪中地域として有名であった。正平6年頃の正月29日の大友氏時知行預ケ状に,「高田庄之内徳丸名字之地杉弐拾貫分……」を徳丸藤内左衛門尉に宛行ったと見えるのが初見(大友家文書録/県史料31)。この史料では徳丸名とは見えないが,徳丸名の発生過程を示すものとして注目される。大友15代親繁は,徳丸名内闕所分26貫分を中村次郎三郎に宛行い,高田荘政所を通じて下地が打渡された(中村文書/県史料25)。26貫分が闕所になった理由および先知行主は不詳。明応9年4月13日の徳丸惟貞知行所反別注文に「高田荘徳丸名土居分」として,18か所約4町歩の坪付がある。これにより当時の徳丸本名主は徳丸氏であることがわかる。土居分の坪名をあげると,しやうこう庵・せんちう屋敷・つるた・弥八屋敷・もと屋敷・竹のはな・ひかし屋敷・上のその・くすの木・めうその・左衛門九郎屋敷・竹久・竹の下・いちしう・五郎四郎屋敷・しやうふつ・柑子木屋敷・まへはたけ,となっている。その後,大友18代親治が徳丸惟貞に「徳丸名扇之内屋敷八貫分」を,20代義鑑が「徳丸名之内扇名本職」を同人に安堵。これにより徳丸名内に新しい扇名の成立がわかる。天文15年5月の高田庄徳丸名扇之内徳丸丹後守等持分検地注文によれば,43筆で田6反・畠13町60歩・見上畠地1町1反の計14町7反60歩とある。うち3反は寺社領,1町小が不河成,残り13町3反半が御徳田畠(徳丸文書/県史料9)。終見は天正5年12月15日の高田荘間別調注文で,「徳丸名間数六百四十弐間」とある。これは由原宮(賀来社,現柞原社)造営に係るもので,間別銭は1間1分宛。なお「徳丸付之内間数 弐百四十間」と見えるのは,扇名を指すものであろうか(柞原文書/県史料9)。




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「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7231998