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土持
【つちもち】


旧国名:日向

(中世)南北朝期~戦国期に見える汎称地名。日向国のうち。日向の旧族土持氏の支配域を指して称したもの。永徳元年7月25日の名和慈冬書状(禰寝文書/今川了俊関係編年史料下)に「先日末吉陣取之事者,則申候了,其後七日ニ当陣池平を取候て,土持城衆にて早謐静了」と見えるが,この「土持城」がどの城を指すものかは未詳。土持氏は中世日向一円に繁衍し,特に県(あがた)(延岡市)・財部(たからべ)(高鍋町)・大塚(宮崎市)・清水(西都市)・都於郡(とのこおり)(西都(さいと)市)・瓜生野(宮崎市)・飫肥(おび)(日南市)の土持一族は土持七頭と称されて栄えた。しかし,これら一族のうち戦国期を最後まで生き残ったのは県土持氏のみで,戦国期には,日向北部の県土持氏支配域は「土持」と称され,土持氏の居城松尾城が「土持城」「土持要害」と称されている。松尾城は室町期以来の県土持氏の居城で,五ケ瀬川に臨んだ要害の地であったが,天正6年4月,大友軍の攻撃により落城した。その時の軍功を記した大友氏の感状ではこの城が「土持要害」として見えている(佐土原文書・大友家文書録・佐田文書・一万田文書・波津久文書/大友史料24)。城を中心に土持氏の勢力域は土持と呼ばれていたらしく,永禄7年9月の島津氏より大友氏への書状には「土持境江御働本望候」と見える(旧記雑録後1)。天正6年,大友氏の日向侵攻に際し,大友軍は土持に向け進軍,土持が戦場となり4月,大友勢に攻略された(三田井文書・大友家文書録・永弘文書・蠣瀬彦蔵氏文書/大友史料24,伊東文書/日向古文書集成,横岳家文書/佐賀県史料集成6,佐藤文書/大分県史料13)。しかし,大友氏は同年11月島津氏と児湯(こゆ)郡高城(たかじよう)付近で決戦の末,大敗した。以後,旧土持領を含む日向北部は島津領となり土持氏が松尾城を預ることになる(大分県史料24・旧記雑録後1・上井覚兼日記)。天正13年,島津氏は九州を平定すべく大友氏攻落を図り,7月19日に土持へ着陣している(大友家文書録/大友史料27)。その後天正15年豊臣秀吉の九州仕置で,3月末には土持城(松尾城)は秀吉軍に攻め落とされ,土持は豊臣政権の支配下となった(吉川家文書1/大日古,豊公遺文/大友史料27)。5月に島津氏が降伏した後,6月14日の書状によれば土持には福智長通が残し置かれたが(旧記雑録後2),その冬に秀吉は九州諸大名の再配置を行い,宮崎と県に封ぜられた高橋元種が松尾城に入った。その後の史料としては,文禄4年10月の大友氏の当家年中作法日記に八朔の行事として「ハ牧所持に付て,代々三歳の馬参候。たまなはをさす也。是をは,日州土持へ毎年遣也」と見える(大友史料31)。なお,天正16年参宮帳には「日向土持庄」が見えるが「日向国さとわら郡つちもち庄」とも記されており未詳(大分県史料25)。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7235473