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外之浦
【とのうら】


県南部,南那珂郡南郷町にある湾。観音崎に抱かれた湾口が,南東の日向灘に開かれている天然の良港で,地方港湾。外之浦から大島に広がる海域は,日南海岸国定公園中の海中公園。湾奥に潟上(かたかみ)川が注ぎ,沖積低地を形成,湾口前面に黒島・松島・烏帽子島などスタック地形の島々がほぼ一直線に並び,日向灘の激浪を防ぐ天然防波堤の機能を果たし,かつては日向国無二の避難港であった。外之浦の地名の由来については定かでないが,外側,遠く離れた所,などを意味するものと考えられる。外之浦港は古くは飫肥(おび)港とも呼ばれ,7~8世紀頃には遣唐船の風待港,10世紀頃には日宋貿易の基地となり,その後,南蛮船も往来し古来重要な港であった。豊臣秀吉の九州統一後,飫肥藩領となり伊東氏の支城も築かれた。飫肥藩の参勤交代は同港から船出。外之浦港は慶安3年からはじまった松田堤の構築で湾内は狭くなり,港としての繁栄は北の油津港に譲った。埋立ての理由は,藩財政上の問題と天災が契機となった。飫肥藩は表禄高5万石と称したが実収高は3万石たらずであり,埋立ての進んだ寛文2年には日向大地震があり,飫肥藩の田畑海没8,500石,家屋倒壊1,213戸と記録されている。以後外之浦港は埋め立てられて水田となり,さらに天保5年31代藩主伊東祐相が,松田堤の南の入江に石垣をつくり,埋立てを進めた。しかし,2つの堤防の間は干潟のままで,満潮の時はボラ漁もできたが,大正5年熊本県の寺本伊作が大部分の埋立てを完成。新堤の水門付近に外之浦造船所が設置されたが,埋立地の半分は荒地と湿地であった。外之浦港について「日向地誌」によれば「熱波(にえなみ)村潟上村ト本村(中村)トノ中間ニアリ 港ノ西岸ヲ地浦ト云潟上村ニ属ス 東岸ヲ栄松ト云本村ニ属ス 両岸相距ル五町三十間港口ヨリ潮屋権現ノ故隄ニ至ル 長十三町余干潮深二仭ヨリ五仭ニ至ル 千石以上ノ船十余艘二三百石ノ船四五十艘ヲ繋クヘシ 出ルニハ西南風又西北風ニ宜シ東南風ニ宜シカラス 入ルニ東北風又西南風ニ宜シカラス 慶安以前潮屋権現ノ故隄ヲ築カサルマテハ九州無双ノ名港ト称セシカ 慶安三年故隄ヲ築キシヨリ港内年年埋リテ巨船碇泊ノ所モ次第ニ港口ニ徙レリ 天保五年岬ノ新隄ヲ築キシ以来又一層埋レリ 嘉永ノ初マテハ岬ヨリ一町許 港口ニハ千石船ヲ繋キシカ 明治八九年ニ至テハ干潮ノ時ハ足ヲ霑サズシテ栄松ヨリ地浦ニ至ルヘシ」と記されている。外之浦一帯は,新生代第三紀四万十累層群上部日南層群(7,000万~2,600万年前)の頁岩(砂岩を伴う)や砂岩頁岩互層が分布するが,観音崎の突端のみは宮崎層群(3,000万~700万年前)の砂岩である。近海マグロ漁業の盛んな時期には油津港に次ぐ漁業の根拠地で,外之浦港に入港可能な船は最大2,000重量tで,年間入港船舶数は約3,500隻。外之浦港には外之浦地区と栄松地区に港湾施設がある。また,港内には県内最大の造船所,外浦ドックが立地している。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7235563