100辞書・辞典一括検索

JLogos

42

奄美大島
【あまみおおしま】


(近世)江戸期の広域地名。鹿児島藩直轄領。郷には属さず,取納代官の支配下におかれた。奄美諸島南端に位置する。名瀬・焼内・西・東・住用・古見・笠利の7間切からなり,間切の下に13の方があった。「琉球国郷帳」の間切総高は1万455石余。はじめ大島奉行,のちに大島代官の役所である仮屋の所在地は諸記録にくい違いがあるが,慶長18年笠利方笠利村(大島代官記)に置かれ(大島私考では大熊村),その後赤木名金久村と大熊村を交互に移り延宝3年からは安政12年伊津部村へ移るまで赤木名方金久村に置かれたという(大島私考・大島代官記)。大島観音寺の開山は延宝3年で,寛政12年仮屋が赤木名から名瀬方伊津部村へ移してから,19年目にあたる文政2年にようやく伊津部村へ移転することになった(大島代官記)。民謡の八月踊り「赤木名観音堂」にはこの遅延を皮肉って,「あかきなくゎんのんどうや いちぶかちなをそ なをそなをそ なおとばかり(赤木名観音堂は伊津部に直そう直そう直そうと空沙汰ばかり)」と詠まれている。新田開墾開拓に着手した田畑佐文仁は島内9方にわたり,正徳2年~元文3年の間に494町7反余を開拓したという(奄美大島史)。元禄元年焼内間切横目嘉和知は大島代官の命をうけて「黍作植付砂糖製法稽古方のため」沖縄に渡航,同3年「製糖を試み申候ところ砂糖出来宜しく」(和家文書/名瀬市誌上・奄美の文化),同11年「大和浜西浜原口植付相試み候間砂糖百二十斤を製しそれより段々大島に流行致候」という(南島雑話)。製糖が発達するとともに藩は砂糖買入れをはじめ,「延享二年代官山口伴内代,貢米ハ総テ砂糖ヲ以テ上納スルコトトナリタリ,砂糖一斤ニ付米三合六勺替,換糖上納実ニ茲ニ始マル」(奄美史談)にいたって,年貢の負担は重くなり農民収奪は苛酷になっていく。「大島代官記」によれば,安永6年大島・喜界島・徳之島,3島共に島中出来砂糖惣買入を達し,諸売買を差留め島民用分の品は藩より差し下すこととしたという。然るに同年砂糖大不作,島中大飢饉にてその冬徒目附得能通昭が大島に下り,翌春上国して報告,さらに翌8年春下島して代米配分等の改正を申し渡した(大島代官記・大島要文集・通昭録巻68)。惣買入制の内容は詳らかでないが,天明7年の仕何替に至るまで行われた。仕何替は天明8年以降定式買入糖350万斤の外買重糖110万斤,都合460万斤を課し,また仮屋方・船頭・水主の定式・買重外買入を許したという(県史)。この砂糖惣買入について「大島私考」は「大島ノ租税ハ米穀ヲ納メスシテ砂糖ヲ以テ納ム,其砂糖ノ余リハ島民吾好所ノ紙茶煙草綿及ビ穀物ニ交易シテ生業ノ用トス,惣買入ト云フ時ハ島民高売ノ交易ヲ禁ジテ租税ノ余リヲ皆諸品ニ易ヘテ年貢ト同ジク上ニ奉ル,是人君民ノ利ヲ貪ルニ似タリ,恥ベキニアラズヤ」と述べている。天保元年藩は調所広郷の「改革第一の根本」である「三島(大島・喜界・徳之島)砂糖惣買入制」すなわち「砂糖専売制度」を実施。交易・古取引・古未進一切停止し,製造した砂糖はすべて藩の倉庫に納めさせ密売は死罪で取り締った。商人の入込み・金銭流通も一切禁止,島内需要物品は砂糖との交換によることとして藩の専売一本にして利益を独占し,農民を収奪するものであった。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7236454