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伊平屋島
【いへやじま】


沖縄本島北部の本部(もとぶ)半島の北方海上約30kmに位置する島。伊平屋村の主島で,村全面積の約95%を占める。村役場の位置はおよそ北緯27°02′,東経127°58′。古くは現在の伊平屋村を構成する伊平屋・野甫両島と伊是名(いぜな)村を構成する伊是名・屋ノ下・屋那覇(やなは)・降神・具志川の5島を合わせてナナハナリ(7離島の意)とも呼び,伊平屋島とも総称した。「当時用候表」には「絵図帳ニ伊是那恵平屋島と二様ニ相立候得共当時ハ伊是那島も惣名ハ伊平(屋)島と唱申候」と記されている。「バジル・ホール探検記」ではこの島々を指してモントゴメリー群島(Montgomery's Groupe),「ペリー訪問記」ではモントゴメリー諸島(Montgomery Islands)と呼ぶ。「おもろさうし」には「いゑや」「ゑひや」,陳侃の「使琉球録」には熟壁山,夏子陽の「使琉球録」には葉壁山と見える。「中山伝信録」にも「葉壁山」とあり,「米を産する最も佳なり。また麦 稷 梁 豆 棉花 蕉糸 海胆 毛魚等の物あり。中に一山あり宛転として竜の如し。尚円王祖塋の所在なり」と記されている。「海東諸国紀」の琉球国之図には恵平也山と見える。大正12年発行の地形図には伊是名島が伊平屋前島,伊平屋島が伊平屋後島と見える。事実,伊是名村をメーヂ(前地)と呼ぶのに対し,伊平屋村をクシヂ(後地)と呼ぶこともある。面積20.99km(^2)・周囲34.23km・最高標高293.9m。北東~南西に細長い島で,北東端の田名岬から南西端の米岬まで約14km,幅は最も広い所で約3km。基盤は古生代または中生代に属する粘板岩を主とし,礫岩・珪岩が混在,一部に隆起サンゴ礁が露出して起伏は大きい。北東からクバ山およびタンナ岳・後岳・アサ岳・腰岳・賀陽山・阿波岳と標高200m級の山が狭小な地域に屹立するため地形は急峻である。分水嶺は著しくそれぞれの山の北西に偏り,北西海岸は切り立った海食崖をなす。農耕地は山地の南東部に広がっているが,島全体の面積の約18%を占めるにすぎない。北から田名,前泊,我喜屋(がきや),島尻の4字が並び,後岳南麓に田名,腰岳南東麓に前泊,腰岳南麓に我喜屋,阿波岳北東麓に島尻の4集落が立地する。我喜屋・前泊の東側は入江となり,砂丘地が広がる。田名集落前から前泊集落にかけては内陸に平地が広がり,稲作やサトウキビ作が盛ん。この平地のほぼ中央部には島最大の田名池があったが,現在は湿原地帯に変わりつつある。また我喜屋集落の西方にも平地が広がり,稲作やサトウキビ作が行われる。山地にはリュウキュウマツ・イタジイ・クバ(ビロウ)などの植生が分布する。また,神話や伝説も多く,名所旧跡も多い。江戸期に京都の藤井貞幹が「衝口発」の中で天の岩戸に比定した,くまや洞くつ,全山が神木クバに覆われた拝所である田名のクバ山および見事な枝振りの念頭平松はいずれも県天然記念物に指定されている。ほかにヤヘの岩・田名城跡・屋蔵城跡などがある。「バジル・ホール探検記」によれば,道光24年(1844)10月13日,運天港(今帰仁(なきじん)村)に向かう途中,モントゴメリー群島の位置を決定したというが,ホール作成の海図には伊平屋島をノース島(North Island)と称し,伊是名島についての記載はない。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7239848