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西表島
【いりおもてじま】


石垣島の西方海上約18kmに位置する島。八重山諸島の1島。竹富(たけとみ)町に属し,西表・上原・古見(こみ)・崎山・高那・南風見(はいみ)・南風見仲の7字を構成。方言ではイリムティ・イリムトゥなどという。また,竹富島ではシューヌンと呼び,これは下の国を意味するシムヌフンの転じたものであるという。西表の語源については諸説があり,「南島志」には入表と見え,石垣島の最高峰於茂登(おもと)岳より深奥にある島の意味であるとしている。またイリムティの語源は,イリウムティ,すなわち西の顔または西の表であるとする説もある(八重山芸能と民俗)。「南島風土記」によると,この島は古くは所乃(そない)島と呼ばれ,次いで姑弥(こみ)島と称えられたが,島の西半分を指すには西の方を意味するイリムティという言葉を用いていた。乾隆36年(1771)明和の大津波によって東部の古見村が壊滅的な打撃を受けて衰微すると,イリムティが島全体を指すように変化したと考えられている。また,ブロートンの海図にはリューキューココ(Riukiu-koko)と見えるが,王国名と島名のとりちがえと思われる。沖縄県では沖縄本島に次いで大きく,八重山諸島では最大の島で,長径約29km・短径約23kmの平行四辺形をなす。面積284.44km(^2)・周囲129.99km。面積は270.87km(^2)または292.5km(^2),最近では287.66km(^2)という報告もあり,いまだに確定的な数値が得られていない。最高点は古見岳の標高469.7mである。全島の約70%が標高200mを超える山岳地帯で,沈水地形のため低地は東部を中心にごくわずかしか分布していない。島の地質はほとんどが第三紀砂岩層からなるため浸食を受けやすい。降水量も多いので山地は沢の入り組んだ複雑な地形をなし,谷を流れる主要河川の河口には,海水が内陸まで浸入するエスチュアリの形態をなしている。山岳地帯は見事な亜熱帯性の多雨林に覆われ,イタジイやオキナワウラジロガシを主体とする照葉樹林が潜在植生である。河口には亜熱帯性のマングローブ林が大規模に広がり,赤道付近に分布の中心をもつ植物も生育している。日本列島では西表島にのみ産する植物が10余種を数え,十指に余る種がイリオモテの付く標準和名をもっている。これらの植物は群生地ごとに船浦のニッパヤシ群落,ウブンドルのヤエヤマヤシ群落,古見のサキシマスオウノキ群落が国天然記念物に,船浮のヤエヤマハマゴウが県天然記念物に指定されているほか,地域ごとに星立と仲間川下流域が天然保護区域として国天然記念物に指定されている。動物相もきわめて豊富で,国特別天然記念物に指定されているイリオモテヤマネコが昭和40年に初めて学会に紹介され,20世紀最大の発見といわれた。このほかに国天然記念物に指定されている動物には,セマルハコガメ・リュウキュウキンバトなどがあり,カンムリワシは国特別天然記念物に指定されている。このように学術上貴重な西表産の動物は枚挙にいとまがない。昭和47年には島の中央部を中心に約1万2,506haが国立公園に指定された。西表島の歴史はまた厳しい自然環境への人間の対応の歴史であった。首里王府を通じて薩摩藩へ差し出すための人頭税として米を上納するために,周辺の島々から西表島へ強制的に寄百姓を送り出したが,悪性のマラリアのために廃村続出の結果となるという為政者の失敗の歴史でもあった。明和の大津波で島の中心地であった島東部の古見が壊滅的打撃を受け,代わって西部の祖納(そない)が西表島の中心となった。明治18年から国家的事業として掘りはじめられた西部の石炭は昭和32年まで掘られていたが,坑夫には筆舌に尽くしがたい苛酷な労働が強制された。炭坑の存在により西表島西部の住人は沖縄で最も早くから標準語を使うようになり,方言と伝統的文化の衰退が八重山諸島の中ではほかのどの島よりも速かった。明治41年に西表島の山林のすべてが国有林となり,現在に至るまで全面積の約9割までが国有林である。戦後,マラリアは撲滅され,琉球政府の開拓政策で島東部に大原・大富・豊原,北部に住吉などの集落がつくられた。昭和52年に北岸道路が開通するまでは,古見を中心とする東部地区と,祖納を中心とする西部地区は,同じ島内にありながら船以外の交通手段をもたなかった。現在でも地元では西部・東部という地域名が用いられている。産業は第1次産業が中心であるが,近年観光関連産業に就く者も増えている。他島との交通手段は船便のみで,現在東部地区に大原港,西部地区に船浦港・白浜港があり,石垣島・小浜島・黒島・鳩間島との間に定期船がある。島の自然が今日の姿に保たれてきたのは地元住民の計り知れない犠牲の結果であった。自然と共存する西表島の開発をテーマにこれまで数多くの調査団が派遣されてきたが,土地利用のあり方についての明確な展望と政策をもてないまま,ほとんど実を結んでいないのが現状である。現在,島の西部と東部に1つずつ大型のリゾートホテルを誘致する計画が町当局と観光業者によって進められており,島の将来について地元住民の間に深刻な意見の対立が生まれている。昭和59年の世帯1,220・人口1,600。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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