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魚釣島
【うおつりじま】


石垣島の北北西海上約140kmにある無人島。尖閣(せんかく)諸島の1島で,同諸島の西端に当たり,ほぼ中央部の経緯度は,およそ北緯25°46′・東経123°32′。方言ではイーグンジマという。イーグンは銛のことで島の地形が銛のように高くそびえていることにちなみ,漁民たちにイーグンジマと呼ばれてきた。面積3.80km(^2),周囲9.68kmで尖閣諸島中では最大の島。島の南海岸は急崖をなし,分水嶺から北海岸に向かっては緩傾斜をなす。分水嶺の西寄りに最高峰奈良原岳(363m),その東側に屏風岳(321m)が屹立する。奈良原岳は明治33年島の地質調査にあたった黒岩恒が,県知事奈良原繁にちなみ命名。島の大部分が第三紀八重山層群の礫質砂岩からなり,東岸から南岸にかけての海岸線付近では隆起サンゴ礁が形成される。また,南側の断崖では角閃石安山岩の貫入が見られる。植生は頂上部付近でコショウノキ・テリハノギク・センカクオトギリなど,北斜面の中腹では東西に走る断層線付近のクバ(ビロウ)の群落をはじめ,タブ・シロガジュマルなどの森林が形成され,オオタニワタリ・イリオモテラン・リュウキュウセキコクなどの着生植物も生育している。動物ではモグラ・セスジネズミ,爬虫類のアカマダラ・センカクマダラ・シュウダや,カラスバトなどの生息が確認されている。かつては冬季にアホウドリ・クロアシアホウドリなどが海岸低地に飛来し繁殖していたが,明治17年頃から始まった羽毛採集の乱獲によって絶滅してしまった。王府時代には中国福州と琉球との航路上にあり,航海の標識島として重要な位置で,陳侃の「使琉球録」に釣魚嶼,「中山伝信録」では釣魚台と記されている。道光23年(1843)八重山諸島に来航したベルチャーはホーピンサン(Hoo-pin-sun,花瓶島)と記しているが(サマラン号の航海記),台湾北方の花瓶島と名称をとり違えたと思われる。「サマラン号の航海記」には「花瓶島の一番高い所は1,181フィートであり,島は南側で,西北西の方向に,この高さまで垂直にくっきり切りとられていて,残りの部分は東に向かって傾斜しており,そこには素晴らしい水の豊かな小川が流れている。住民ないし訪問者の痕跡はない……この島の組成は玄武岩の角閃石,杏仁状溶岩などの塊を含むトラップである……島の東南の角の位置は北緯25度47分7秒,東経123度26分であった」とある。イギリス海軍水路誌支那海第4巻にも「Hoapinsu」と記され,旧帝国海軍発行の日本水路誌第2巻でもホアピンスと記される。沖縄ではヨコンジマとも称し,明治中期頃までは釣魚島と呼ばれていた。明治17年頃から静岡県出身の古賀辰四郎によって,グアノ(海鳥糞)やアホウドリの羽毛採集,鰹節生産のため開拓がなされ,集落(俗称古賀村)も形成され,一時は,釣魚島を中心に約250の人口を抱えた。明治28年の政府閣議で日本領土となり,昭和7年古賀善次に払い下げられた。第2次大戦中,石垣島から台湾に疎開する180人をのせた輸送船が魚釣島近海で米軍機の攻撃を受け沈没し,魚釣島に上陸したが,食糧難と病気のため多くの犠牲者を出した。昭和40年石垣市により台湾疎開石垣町民遭難慰霊碑が建立された。現在は石垣市登野城2392番地となっている。なお中国や台湾もこの島にそれぞれの名称を付けており,和平山・和洋島とも呼ばれている。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7239910