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来間島
【くりまじま】


宮古島の南西約1.5kmに位置する島。方言ではフィマズマという。宮古諸島の1島。「指南広義」「中山伝信録」「琉球国志略」「琉球入学見聞録」などには姑李麻,「李朝実録」には屈伊麻島と見える。「バジル・ホール探検記」ではコルマ(Koruma),ゴーヴィルの「琉球覚書」ではクリマ(Kou-Lima)と見え,バーニーの海図ではコルマを池間島に当てている。周囲6.42km・面積2.83km(^2)。下地(しもじ)町に属し,1島で字来間を構成。北西から南東方向に長軸(2.38km)を有する南西側に弧を描く半円状の島。地形は,島の北東側を北西から南東方向に断層崖がカーブして走り,この崖上の46.9mを最高点として,南西方向に緩やかに傾く。崖下には基盤である第三紀の島尻層群の泥岩が一部に露出するが,島の大半は第四紀更新世の琉球石灰岩によって覆われている。石灰岩は最も厚いところで40m余に達し,その表面は,石灰岩の風化土壌である島尻マージで覆われている。石灰岩の洞穴堆積物から,第四紀更新世に繁栄し,のち絶滅したというミヤコノロジカの化石が出土している。海岸付近や断層崖周辺には,モクマオウ・ガジュマル・アダンなどの植生が見られ,毎年10月中旬頃南下するサシバ(鷹の一種)の大群の中継地ともなっている。宮古島との間は,最深部が7~8mと浅く,潮流も潮の干満によって1日2回の周期で南東方向と北西方向に生じ,最大流速が1時間約0.8ノットと比較的速い。周辺のサンゴ礁は,南側で発達がよい。集落は,島の北東部の標高40m以上の断層崖上に位置し,対岸の宮古島の与那覇前浜(よなはまえはま)海岸からは見えない。急崖上に集落が形成された理由の1つは,透水性の強い石灰岩で島が形成されているため,河川がなく,近くの崖下の石灰岩と泥岩との不整合部分から湧き出すクリマガー(来間川)に,生活用水を求めたためである。宮古島からの海底送水(昭和49年開始)による上水道の普及までは,100段余の急な階段を上り下りして生活用水を確保した。クリマガーは,険阻な地にあった井戸として「来間川のあやぐ」に謡われている(アーグ112/歌謡大成Ⅲ)。島には,当時の水くみの苦労を詠んだ「来間川ぬ 百段(むむて)巾 ふんがつなんめえ うわがこと かなしやがことど思うよ(あの急崖の階段を水を運びながら上り下りする苦労も,いとしい君を思えば苦にならない)」という歌が伝わっている。「来間添う女メガ」というクイチャーに「にしぬんみー(北の嶺)」という嶺名が見えるが,比定地未詳(クイチャー29/歌謡大成Ⅲ)。集落の西には,島の守護神を祀った「由来記」にも見えるイズアラサキウタキ(西新崎御嶽)があり,南には,宮古固有の矩形に大石を積んだ風葬墓地遺跡であるスムリャーミャーカ(巨石墓,県史跡)がある。農業中心の島で,サトウキビ中心の農業から,近年葉タバコや県外向けのカボチャの栽培も盛んになっている。サトウキビは,宮古島の製糖工場へ搬出。昭和52~54年に集落の南西側では団体営草地開発事業が実施され,畜産にも力を入れている。漁業は副業的に行われている。宮古島から昭和44年に海底ケーブルによる送電,5年後には海底送水が始まり,島の生活環境は著しく改善されたが,人口流出が続いている。昭和30年に566人あった人口も,同55年には半分以下の253人に減り,高齢化も著しい。来間島と宮古島を結ぶ海中道路の計画があり,同56年にはボーリングによる海底地質調査を実施した。対岸の宮古島与那覇前浜との間に1日4回の連絡船が運航されている。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7240516