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下地島
【しもじじま】


宮古諸島の伊良部(いらぶ)島と接する島。方言ではスモズズマという。宮古島と海上約4kmを隔てた伊良部島とともに伊良部町を構成。伊良部島の南西側に,最大幅およそ100m・長さ3.3kmの狭い水路を隔てて位置する。北西~南東方向の長さが5km,幅2.7kmの楕円状の島で,面積は9.65km(^2)。島全体が第四紀更新世の琉球石灰岩からなり,南西端の標高21.7mを最高として,地形は北東側(伊良部島側)に緩く傾斜する低平な島である。表面は,石灰岩の風化土壌である島尻マージが薄く覆い,ドリーネも見られる。多孔質で透水性の大きい石灰岩のため,河川の発達は見られないが,北部には一部低湿地帯が分布する。また北西海岸近くには,鍾乳洞の天井部分が欠けて形成された,隣接する2つの円形の池からなる通り池(県天然記念物)がある。海岸線は,南東側半分が比較的単調なのに対し,北西側半分は出入りに富んでいる。北端の西海岸から伊良部島北端の白鳥(しらとり)崎にかけて,長さ6.3kmのサンゴ礁が弧状に発達している。水路沿いの浅い砂泥質海岸には,ヒルギ類を中心としたマングローブが分布する。元島である伊良部島に続く島という意味でイラウスモズともいわれ(伊良部村史),古くから伊良部や佐和田などの対岸住民の耕作地や磯漁の際の宿泊地として利用されていた。「伊良部村史」によると,下地島で耕作が始まったのは16世紀頃で,最初は伊良部島の対岸周辺で行っていたが,のちには内陸部にもハルヤー(畑小屋)を作って泊りがけで行うようになった。17世紀頃には北部の低湿地帯で,水田耕作が行われるようになった。この水田地帯には,自分の境遇を嘆き悲しんでいた名子が牛とともに一瞬のうちに水田下に沈んでしまったというオコキダ(浮き田)の伝説がある。一方,通り池周辺には,対岸の伊良部島の人々が磯漁のときに泊った木泊り村があったが,一夜のうちに津波によって滅亡したと伝えるヨナイタマ(人魚)伝説がある(伊良部村史)。乾隆36年(1771)宮古・八重山地域に大きな被害をもたらした明和の大津波のときには,島全体が冠水した(球陽尚穆王20年条)。隣接する伊良部島との交通は,木造の橋で行われていたが,同44年に石造の佐和田大橋が完成した。現在は伊良部島との間に6つの橋がある。島の東半分は耕作地として利用されており,主としてサトウキビが栽培されている。西半分には,昭和54年北側海岸の一部を埋め立て,ほぼ南北方向に3,000mの滑走路をもつわが国唯一のパイロット訓練飛行場でもある下地島空港が完成し,町経済に大きく寄与している。完成の翌年から那覇(なは)との間に,1日1回の定期便が就航。最近北東部に空港関係の職員宿舎が完成し,有人島となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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