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宝口樋川
【たからぐちひがわ】


那覇(なは)市首里儀保町4丁目にある井泉。宝樋とも儀保川樋川とも呼ぶ。井泉名は首里儀保町北部を東西に走る西森の西麓一帯を宝口と通称することにちなむ。虎瀬山から西森,宝口,唐栄の松山に至るまでは地脈が通じ,首里城の風水にかかわるといわれた(球陽尚泰王10年条)。宝口と首里桃原町域の境を流れる安里川上流右岸の崖から湧き出る豊富な泉で,王府時代から付近住民の生活と深くかかわってきた。樋川入口にたっていた宝樋碑によれば,水の湧出口には岩石が突き出し,また周囲には竹や雑木などが繁茂し,湧出口に容易に近づけなかったが,嘉慶12年(1807)に当蔵村の宮城筑登之親雲上と附従者24人が泉に樋を設け,通路を開くことを願い出た。工事は同年9月に着工,11月に竣工し,その功で彼らは位階を与えられた(宝樋碑表文・球陽尚灝王4年条)。さらに道光22年(1842)には赤田村の宮城筑登之の母が10万貫文余を王府に献じて樋川の大修理をし,新参士籍を与えられた(宝樋碑裏文・球陽尚育王8年条)。豊富な水と日当たりのよい地形に恵まれたため,この一帯は道光15年王府の製紙地区に指定された(球陽尚育王6年条)。こののち宝口一帯には紙漉屋と呼ばれる業者が集まり,第2次大戦直前まで製紙が行われていた。沖縄戦で宝樋碑は破壊されたが,樋川はほとんど元の姿をとどめ,あいかた積みの石壁や石敷などが残る。昭和51年市史跡に指定された。なお,樋川の近くには宝口のたまおどんと呼ぶ王家の脇墓(宝口御墓・宝口陵)があった。王の側室や夭折した王の子女が葬られていたが,沖縄戦時に米軍が軍用道路建設に伴い西森の丘陵の大半を削りとったため,宝口のたまおどんは消滅した。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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