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中山
【ちゅうざん】


旧国名:琉球

(古代~近世)三山鼎立時代の広域地名。三山統一後は琉球国の別称として用いられた。近世に編述された正史によれば,琉球は有史以来統一王統によって統治されてきたが,英祖王統玉城王代の延祐年間(1314~20)に至って国政が乱れ,今帰仁按司と大里按司が離反して北山(ほくざん)・南山(なんざん)を形成したため,統一王統は崩れ,中山の勢力範囲が限定されたという。以後15世紀前半までを三山鼎立時代・三山分立時代という。現在では,中山は北山・南山同様諸按司の抗争の中で次第に台頭した小国家であるとする見方が有力である。中山の範囲は,順治7年(1650)の「中山世鑑」によると,首里三平等・那覇(なは)・泊・浦添(うらそえ)・北谷(ちやたん)・中城(なかぐすく)・越来(ごえく)・読谷山(ゆんたんざ)・具志川・勝連(かつれん)であり,康煕40年(1701)蔡鐸本「中山世譜」も同様に記すが,雍正2年(1724)の蔡温本「中山世譜」とこれをうけた「球陽」では首里三平等が真和志(まわし)・南風原(はえばる)・西原に書き改められている。17世紀中期から18世紀初期にかけての正史編纂官たちの間で,沖縄本島東海岸の西原から南風原そして西海岸の真和志に達する一帯以北を中山,それ以南を南山の領域とする理解があり,また越来・読谷山を結ぶ一帯までを中山,それ以北を北山の領域とする認識のあったことがわかる。この中山の範囲は,基本的に近世の中頭(なかがみ)方,近代の中頭郡,現在の中部にそのまま引き継がれている。中山は,同時代の記録としては,「明実録」洪武5年(1372)の条に,明の太祖洪武帝の招諭に応じ,中山王察度がその弟泰期を遣わして方物を貢じたとある記事を初見とする。「明実録」には,中山王のほかに北山王・南山王の入貢の記事もあり,14世紀末の琉球には王を称する者を戴く3つの勢力圏が存在していたことを示している。三山鼎立時代,中山の拠点は浦添であったとする説がある。浦添が津々浦々を支配するところという義からでた地名であることや,中山の覇者といわれる舜天・英祖・察度の3王が浦添に関連して伝承されていることが,この説を裏付ける。中山王武寧は,尚巴志の率いる勢力により,永楽4年(1406)王位を奪われ,尚巴志は父親の尚思紹を中山王とした。宣徳2年(1427)には尚巴志によって首里城とその外苑が整備されていることから(安国山樹華木之記),この時点で中山の拠点は浦添城から首里城に移っていた。尚巴志は,永楽14年北山王攀安知,宣徳4年南山王他魯毎を亡ぼし,第一尚氏王統による統一王国琉球国を樹立した。統一後の国王は慣例により琉球国中山王を名乗ったため,中山は琉球の別称となった。琉球国を中山国,首里王府を中山王府と称するのは,このような事情による。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7241031