100辞書・辞典一括検索

JLogos

34

波照間島
【はてるまじま】


石垣島の南西海上約42kmに位置する島。八重山諸島の1島。竹富(たけとみ)町に属し,1島1字をなす。沖縄県の南端に位置し,有人島としては日本最南端に当たる。島の中央部の位置はおよそ北緯24°03′,東経123°47′。方言ではパティローマシマといい,地元ではパチラーシマともベーシマともいわれる。「おもろさうし」には「はてるま」とあり,「李朝実録」には捕月老麻伊是麽・悖突麻島,「指南広義」には巴梯路間と見える。また「中山伝信録」には巴梯呂麻と記録され,それ以後は波照間が一般的に使用されている。また,「波照間島節」に「波照間ぬ島や……下八重山ぬ島や」と見え,また「崎山節」にも「波照間ぬ下八重山ぬうちから」とあって,波照間は「下八重山」と謡われている。「南島風土記」は,波照間島発祥の家といわれる保多盛家秘蔵の古文書にある「やゑままきりのあらもとのめさしはあらもとつくぬたまはりまうす 天啓六年八月廿八日」に見える「八重山間切」は,下八重山すなわち波照間を指し,波照間を「下八重山」とも「八重山間切」とも称したとする。波照間島は南海の最果ての孤島であるという地理的特異性からこのようにさまざまな名称で呼ばれたが,「屋久アカマリ」と「鍋掻」の伝説で知られるように,波照間のさらに南の沖に未知の島パエパトロー(南波照間)があるように想像したものもあった。またブロートンの海図ではサンディ島(Sandy Island),ベルチャーの「サマラン号の航海記」ではハカルマ(Hakaruma)・サンディ島(Sandy Island)と見え,より早いゴーヴィルの「琉球覚書」に見えるパトゥリマ(Pa-tou-li-ma)は八重山島の北東に位置するとあるが,音は波照間島を指している。島名の由来については諸説があり,波照間とは「ハテウルマ」で,ウルマとは琉球の雅語であることから,ウルマ(琉球)の島々のうち南の果てに当たる島を意味するともいい(海南小記),「ウル」はサンゴまたはその砕けた砂礫,「マ」は場所であるとして砂礫の果ての島の意ともいう(南島叢考)。さらに,波照間はもとパトロー島と呼ばれ,台湾のアミ族が沖の島を指すボトルとかボトロルの語に関係があるともいう(琉球民俗誌)。島は面積12.46km(^2)・周囲14.80kmの東西に長い楕円形をなし,八重山諸島の中では西表島・石垣島・与那国島に次ぐ4番目に大きな島である。隆起サンゴ礁特有の低平な地形であるが,島の最高点は中央部,波照間灯台付近で,標高59.5m。島の海岸は,南東部には高那崎に代表される高さ15mに達する海岸が続き,北西海岸は浜崎などの砂浜,その他はサンゴ礁海岸となっている。島の基盤岩は新第三紀中新世末期ないし第四紀更新世初期に属する島尻層群泥・砂岩で,第四紀更新世中・後期の琉球石灰岩,および完新世堆積物で不整合に覆われている。昭和53年の調査などによると,地形は高い方からⅠ~Ⅳ面に区分でき,Ⅰ面は石灰藻石灰岩,Ⅱ面は砕屑性石灰岩,Ⅲ面はアワ石状石灰岩,Ⅳ面はサンゴ石灰岩で構成され,Ⅱ面以下は海岸段丘面と考えられている。南東端の高那崎から島の中央部に向かって北西に活断層線が走り,島ではこの部分をタカナバリ(高那割)と呼んでいる。この高那割に沿って島のほぼ中央部にシイサバルイシ(白郎原洞)などの鍾乳洞とドリーネ,その結合したウバーレなどの石灰岩特有のカルスト地形が見られる。また島のプーリィ(豊年祭,アミジワともいう)などの神行事や古謡なども高那割に関するものが多い。気候は高温多湿な亜熱帯海洋性気候で,代表的な植生として海岸にはハマシタン(ミズガンピ)群落やイガブサ(ハテルマギリ)群落,ヤラブ(テリハボク)群落などが波照間独特の植生景観をなし,特に西海岸のミズガンピ群落は樹高3.5m,幹の周囲2mにも及び,この種には珍しく喬木化したもので,町天然記念物に指定されている。信仰心の強い波照間島の人々の間では,聖地である御嶽や拝所への出入りが厳しく禁じられているため,特に大きな聖地である白郎原御嶽・真徳利御嶽・阿幸俣御嶽などには原生林さながらの自然林が残存している。また集落内にはフクギの屋敷林が見られ,サンゴ石灰岩の石垣と赤瓦の屋根とともに南島独特の人文景観を残している。波照間島は絶海の孤島でありながら,有害なハブも生息しないうえ,マラリアなどの風土病も少なく,また南方諸国と琉球諸島を結ぶ南端の接点という地理的位置から,先島諸島の中でも比較的古い歴史をもつ。県史跡に指定されている下田原貝塚や下田原城跡(方言ではブリブチ)などの考古遺跡をはじめ,オヤケ・アカハチの乱で知られるオヤケ・アカハチ生誕の地,長田大翁主の生母を祈念する長田御嶽,アカハチに殺された明宇底獅子嘉殿とその一族にかかわる御嶽などがある。古くからの集落は,ほぼ島の中央部の,島尻層の基盤岩が表層に近く,水の得やすい地域にあり,井戸を中心に集落を形成している。名石・前・南・北の4集落がこれに該当し,北西部に外(富嘉)集落がある。これらの集落はそれぞれの御嶽と会館を中心とし,島の中央部に公民館をはじめ波照間小学校・波照間中学校・波照間郵便局・波照間警察官駐在所や診療所,八重山保健所波照間保健婦駐在所などの公共施設がある。波照間島は行政上も重要な地で,首里王府に支配された時代には首里大屋子職が置かれたが,現在も島の人々は年中行事を厳重に守っており,神謡や古謡も豊かで,祭政一致の時代の高い文化を物語るものである。島最大の年中行事であり,県の記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財に選択されているムシャーマは公民館の前の広場で行われる。また神事は主に各集落の御嶽を中心に行われる。村のすべての神事は外集落の阿底御嶽から始められ,真徳利御嶽を真正面に遠望する真正拝をもつ。また島の宗家とされる保多盛家は島の北西部にある。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7241438