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北山
【ほくざん】


旧国名:琉球

(古代~中世)三山鼎立時代の広域地名。山北とも書く。近世に編述された正史によれば,琉球は有史以来統一王統によって統治されてきたが,英祖王統玉城王代の延祐年間(1314~20)に至って国政が乱れ,今帰仁按司と大里按司が離反して北山・南山(なんざん)を形成したため,統一王統は崩れ,中山(ちゆうざん)の勢力範囲が限定されたという。以後15世紀前半までを三山鼎立時代・三山分立時代という。現在では,三山ともに諸按司の抗争の中から形成された小国家であるとする見方が有力である。今帰仁(なきじん)城を中心とする北山の範囲は,順治7年(1650)の「中山世鑑」によると,羽地・名護・国頭(くにがみ)・金武(きん)・伊江島・伊平屋(いへや)島(伊是名(いぜな)・伊平屋両島の総称)であるという。つまり,読谷山(ゆんたんざ)・越来(ごえく)を結ぶ線までは中山,それ以北の地を北山の領域と説明している。奄美諸島(鹿児島県)には,与論島・沖永良部島などが北山の範囲であったとする伝承がある。奄美諸島を除く北山の範囲は,基本的に近世の国頭方,近代の国頭郡,現在の北部にそのまま引き継がれており,国頭地方の俗称である山原(やんばる)の範囲とも重なっている。北山は,同時代の記録としては,「明実録」洪武16年(1383)の条に,山北王帕尼芝が中山・南山に続き,琉球の第3の政治勢力として明に入貢したとあるのが初見である。以後「明実録」は,珉・攀安知の山北王の入貢を記すが,永楽13年(1415)の記事を最後に,山北王に関する事項は姿を消す。琉球の正史によれば,北山は攀安知代の永楽14年,腹臣太原の裏切りなどもあって尚巴志の率いる中山軍に亡ぼされたという。北山の滅亡は,同20年という説もある。北山滅亡後,尚巴志は次男尚忠を北山監守に任じ,同地の統治を担当させたが,この制度は第二尚氏王統にも引き継がれた。第二尚氏尚真王は,15世紀末期に三男尚韶威を今帰仁城に常駐させて北山監守(今帰仁按司)とし,以後康煕4年(1665)に廃されるまで,その一族が北山を監督した。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7241670