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水納島
【みんなじま】


沖縄本島北部,本部(もとぶ)半島の西方約7kmの東シナ海に位置する島。方言でもミンナジマという。「ペリー訪問記」ではミナ島(Mina Island)と見え,日本海図182号Bには面那島とある。「みつな」「水な」とも書かれ,明治・大正期は水無と水納が混用されたが,昭和期になって水納に定着した。瀬底島とともに本部町字瀬底を構成。面積0.54km(^2)・周囲4.61km・最高標高11.8mの隆起サンゴ礁からなる低平な小島で,南西に開いた馬蹄形をなし,周囲に裾礁が発達する。飲料水に乏しく,旱魃の際には海を渡って本部に水を求めた。地名も井泉がないことにちなむといわれる(南島風土記)。北部は砂質土壌,南部は赤色マージ。アダン・モクマオウなどが密生し,集落内はガジュマル・クワ・ブッソウゲなどが多い。島を囲む真白の砂浜とエメラルドグリーンの海は島を象徴する景観である。南西方100m程の海中にイチブ石と呼ばれるキノコ岩がある。川や池は全くない上,島の開拓期に掘った3基の井戸は飲料に適せず,飲料水はもっぱら天水に頼った。「絵図郷村帳」には今帰仁(なきじん)間切のうちに「水な島 無人居」と見える。また,この島はメンナノ御嶽として島全体が聖域で,「由来記」には本部間切瀬底村のうちと見え,瀬底ノロと根人の祭祀とあり,「旧記」には本部郡のうちとして「面那嶽(在瀬底邑)」とある。瀬底の伝承によれば,昔,島がまだ無人島で所属が不明確であった頃,瀬底・伊江両島から水納島に向けての舟漕ぎ競争に瀬底が勝ち,瀬底の所属になったという。また「南島風土記」には,もと1島1村をなしたが,明治36年に村を廃し瀬底に属したとある。しかし,水納島は過去に1島1村をなしたことはなく,伊江島から通耕した記録はあるが,明治20年代以前は無人島であった。同23年開墾が始まり,同25年にのちの初代瀬底区長渡久地嘉助が区画整理のため渡島している。現在でも耕地は縦横整然とし,地割の跡がうかがわれる。はじめは瀬底村の製糖組6組が開墾にあたり,各組から1人宛の地番人が駐在して耕地を管理していた。明治32~34年の戸数13,同35年は8戸で,1戸平均はいずれも1人となっており(県史20),地番人が1人ずつ1戸を構えていた。開墾地に植え付けたサツマイモは,大きく美味で水納ウム(イモ)と呼ばれ好評を博した。明治36年の土地整理で土地は瀬底村の人々の私有となり,その頃相前後して瀬底島から13戸が移住して集落が形成された。その後明治末期には17世帯を数えた。明治41年本部村瀬底の小字となる。大正初期,瀬底島からの通耕者3名が海難事故で犠牲となり,その後通耕者の中に土地を手離す人が続出したため,ほとんどの土地が移住した人々の所有地となった。島全体が聖域であるため,開墾時代には島に渡るとまず砂浜に正座して合掌,安全無事を祈願してから島での仕事にかかった。現在も瀬底島のシヌグその他の祭事には,瀬底集落の南にあるサンケーモー(参詣毛)の丘から水納島にお通し(遥拝)する。島内には開拓のはじめ頃創建された御殿(拝所)があり,旧暦5月5日・9月9日にはカーウガン(井泉御願)を行う。島をとりまくリーフはタコ・サザエなどの海の幸に恵まれ,豊穣な開墾地とともに島の人々の生活を支えてきた。現在は牛・スイカ・ニンジン・モズク・サザエなどが島の経済を支えている。学校は大正9年以来季節的に開校していたが,昭和12年通年制となった。瀬底島との間は鹿児島・阪神・京浜航路の貨客船が頻繁に航行する。同45年水納島灯台初点灯。同48年みんな丸が就航し,それまでの不定期連絡船が定期便となり,現在,本部町渡久地(とぐち)港との間を1日2往復している。同年県公害衛生研究所ハブ支所による駆除事業開始。また電話が架設された。同51年水納貝塚を発見。同53年桟橋と水路浚渫完工。同56年海底送水・送電施設竣工。同58年水納島無電方位信号所開設。大正5年の戸数22,昭和17年の戸数22,同35年の人口103。世帯・人口は,同45年20・64,同50年24・59,同54年20・64。




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「角川日本地名大辞典」
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