100辞書・辞典一括検索

JLogos

15

屋我地島
【やがじじま】


沖縄本島北部,羽地内海を隔てて本島と相対して浮かぶ島。方言でもヤガジジマという。「フォルカドの日記」「ペリー訪問記」ではライラ島(Lyra Island)と見える。面積7.66km(^2)・周囲16.01km。南東の奥武(おう)島とともに羽地内海と東シナ海を隔てる。北方約2kmのところに古宇利島があり,西は運天水道を隔てて本部(もとぶ)半島と相対し,奥武島を経て,県道110号で沖縄本島と結ばれ,屋我地島~奥武島間には屋我地大橋が,奥武島~本島間には奥武橋が架かる。近世には羽地間切,明治41年から羽地村に属し,昭和21年屋我地村として分村,1島1村を構成した。のち同45年に名護市と合併し,現在名護市に属する。我部(がぶ)・饒平名(よへな)・運天原・済井出(すむいで)・屋我の5字からなる。「南島風土記」によれば,もと羽地間切屋我村の請地であったことから屋我地といわれているが,本来はこの島を古宇利島と呼び,現在今帰仁(なきじん)村に属する古宇利島を沖の古宇利と呼んだという。検地帳も現在の古宇利島を沖郡島と注しており,従って「海東諸国紀」の琉球国之図に郡島と記してある大島は屋我地島に当たると思われる。名護地溝帯に特有の第三系砂岩からなり,最高標高55.2mで低平な丘陵が展開している。島の中央部は主に国頭(くにがみ)マージで覆われ,周辺部は島尻マージが分布し,海岸低地には沖積土壌が見られる。屋我地島は大昔,土地の陥没があって離島になったとする伝説がある。運天原の公民館近くの運天水道に面した丘陵上のふもとには県史跡屋我地運天原サバヤ貝塚があり,面縄第Ⅰ式土器が出土している。島の北西部の運天原には,道光26年(1846)に建てられたオランダ墓碑2基が残る(県文化財調査報告書69)。「フォルカドの日記」によれば,この墓は運天港を望む景勝地にあって,フランス船のコルベット艦サビヌとヴィクトリュズの乗組員を葬り,木の十字架を立てたという。この日記からみて,碑文にある「一千八百四十六年儒安月二十日病故」の「儒安月」はフランス語の6月,ジュアン(juin)のことと思われる。また,碑文の「歌爾勿特未客多利阿斯」は,コルベット艦ヴィクトリュズの音写と考えられる。各集落は島の海岸低地に立地し,現在ではサトウキビ栽培を中心とする農業が基幹産業である。第2次大戦前は羽地内海に面した海浜には塩田が開け,製塩も盛んであった。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7241911