100辞書・辞典一括検索

JLogos

6

原市村(近世)


 江戸期~明治22年の村名。碓氷郡のうち。安中藩領。検地は慶長6年と寛文3・4年などに実施され,村高は,「寛文郷帳」で829石余うち田方225石余・畑方603石余,「元禄郷帳」856石余,「天保郷帳」「旧高旧領」とも同高。当村は宝永7年から中山道松井田宿の定助郷を勤めた。明和7年の村書上帳(桜井家文書)による家数200・人数1,109,馬40。慶応3年の村明細帳(仁井家文書)では家数258・人数1,043(男542・女501),馬17。なお幕末の改革組合村高帳では,安中宿寄場組合に属し,高829石余,家数234とある。名主は磯貝家が世襲。鎮守は榎下神社,寺院には曹洞宗久昌寺と真言宗万福寺・真光寺・観乗院・長泉寺の5か寺があったが,うち長泉寺は明治4年廃寺となった。なお万福寺は,「旧高旧領」によれば寺領27石余がある。真光寺境内には時の鐘と呼ばれる市重要文化財の梵鐘がある。領主から時を知らせる鐘として使用を許され,天明元年7月2日撞きはじめを行ったという(仁井家文書)。また地内中山道沿いに国天然記念物に指定された安中原市の杉並木がある。慶長年間に植樹され,天保15年には原市分215本あったが,今では17本を残すだけである。明治4年安中県,群馬県を経て,同6年熊谷県,同9年群馬県に所属。同6年真光寺を仮用して原市小学校開設,「郡村誌」による生徒数男78・女21。同11年組合製糸碓氷社が設立され,生糸の改良と販売を行ったが,碓氷社の組合員数は同13年で339人と最も多かった。このほか碓氷共立商店などの金融機関も設立され,旧宿と対抗する経済上の地位を築いていった(安中市誌)。同7年米国から帰朝した新島襄は地内にも布教,同18年原市教会が創設され,同19年には信徒で県会議員であった宮口二郎によって碓氷英学校が設立された。同22年原市町の大字となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7284237