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霊山
【りょうぜん】


伊達郡霊山町と相馬市大字玉野にまたがる山。標高804.7m。阿武隈(あぶくま)川と浜通りへ流下する宇多川流域の分水界をなす。花崗岩から成る阿武隈高原の600m台のなだらかな稜線の上にひときわ目立ってそびえ立つ1主峰。新第三紀初期に起こった火山活動によって硬い玄武岩質の集塊岩が花崗岩の上に堆積し,この層がその後の浸食に耐え,テーブル状の形で残ったものが霊山である。特に霊山の西側には多くの断層線があり,これに沿って一段と浸食も進んだため,西側は断崖をなして様々の奇岩が連なり,かつ福島盆地を経て,はるかに吾妻連峰を望み得る景勝の地である。東側はこれと対照的にそれほど急傾斜を示さない。南麓の石戸川の谷には国道115号が通り,福島相馬市を結ぶ直通バスの便もあり,霊山子供の村などのレクリエーション施設もある。霊山の名称は,慈覚大師円仁が天竺の霊鷲山にちなんで霊山寺を開いた寺名によるといわれる。霊山寺は「北の叡山」といわれ,岩山の絶頂にある山上伽藍跡のほか,中腹の寺屋敷遺跡,山王院遺跡,東寺屋敷遺跡,二つ岩遺跡および古霊山遺跡から成り,山上,山麓にかけて大寺院跡がある。「霊山寺縁起」によると盛時は3,600坊があり伊達・宇多・刈田3郡を寺領としたと伝えられる。霊山寺の礎石群が林中に発見されている。中心をなしたのは山上伽藍と,中腹の寺屋敷で,山頂の寺院は建武4年陸奥国司鎮守府将軍北畠顕家が義良親王を奉じて陸奥国府をここに移した,いわゆる霊山城で,物見岩がある。国司館といわれる遺構は5間×4間の大礎石群があって,これを中心として10数棟の礎石,掘立柱の遺構がある。山上寺院を転用した国府正庁等が霊山城で,現在山頂に霊山城碑,義良親王在御碑などがある。閼伽清水を中心とする中腹の寺屋敷遺跡は最も建物跡が多い地帯で,天台宗特有の荷堂(にないどう)2棟が軒を接し,同規模の三間堂がある。法華堂,常行堂であろう。最上段には五間堂がある。伝承通り千手堂跡であろう。右側に六角円堂跡,左にも塔跡とみられる土壇がある。山王院遺構も礎石をもつ大伽藍で,土塁に囲まれた山王二十一社の遺構がある。これらの遺跡からは9世紀末~中世にかけての土師器・須恵器その他が出土する。山上の二つ岩という巨石がある付近にも礎石群があり,青磁皿・青磁茶盆(植木鉢)・古瀬戸・石硯が多量に出土する。青磁皿・花盆は朝鮮新安海底から発見されたものと同種で13世紀末のものとみられる。顕家戦死後霊山城(山上伽藍)は貞和4年北党の重囲下に落城し,山上・中腹,山麓の伽藍・院坊はすべて兵火により炎上して霊山寺は1宇もあますところなく湮滅し礎石を残すのみとなった。のち霊山寺・山王二十一社は山下の大字大石に移り,霊山寺は東叡山寛永寺の天海上人により再興され,元徳年間の板碑数基が遺存し,藤原期の経塚出土品もある。明治15年霊山城の支城といわれる古屋館跡に別格官幣社霊山神社を創建して北畠一族を祀る。昭和9年霊山は国の史跡名勝となり保存され,霊山町においては指定地保存策定の基礎調査を国庫補助で実施している。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7601355