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大河津分水
【おおこうづぶんすい】


信濃川の放水路で新信濃川とも呼ばれる1級河川。西蒲原郡分水町の大河津から弥彦山地を横断して寺泊海岸まで約10kmの間,海岸部の丘陵をも掘り割って開削した人工河川。信濃川は年間156億tの流水量をもつ大河川で,信濃川下流西蒲原地方5万haの水田を灌漑する水源であるが,春の雪解水・梅雨・台風等の洪水被害が多発し,沿岸特に三条より下流の低湿地には三年一作と語られるほどの甚大な被害を与えてきた。藩政期の越後国は幕府領と小藩が入り乱れ,互いに他藩を牽制する政策をとっていたため利害も一致せず,治水政策も一貫しなかった。このため享保年間以来沿岸住民,寺泊の本間数右衛門父子等による幕府への請願が何回となく行われたが,利害の錯綜のため許可されなかった。明治元年5月信濃川地方未曽有の大洪水を機に,同3年5月より朝廷御下賜金40万両,全国国役金15万両,水害地分担金45万両をもとに分水路工事が着手された。しかし河口の新潟港が港の水位低下を主張して反対し,信濃川水運業者の反対もあるなど問題点が多く,同8年3月工事を廃止。100万両の工事費は水泡に帰した。代わって信濃川の拡幅,堤防補強工事が施工されたが,その後も信濃川の洪水破堤は度重なり,分水工事再開の陳情を促進する機縁となった。明治42年工事が再開。13か年の歳月をかけて大正11年通水し,全工事は昭和2年に完成して,200年に及ぶ沿岸住民の願望が達成された。完成直後に放水路側の自在堰が陥没し,信濃川の全流量が放水路を通って海に達したので,下流域の灌漑用水が不足する事故にみまわれたが,同6年改修され,以降蒲原平野の農業生産は洪水被害を免れるようになって飛躍的に増加した。分水開通により,寺泊町の寺泊地先および野積地先の海岸は,放出された土砂流の堆積により,毎年6m程度は前進し,広い海浜地域を形成。信濃川分水の分岐点には分水掘削工事の様子を展示した大河津分水記念館がある。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7602560