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三里浜
【さんりはま】


米の浜(よねのはま)ともいう。福井市北西部から坂井郡三国町に続く海岸砂丘。「越前地理指南」に「泥原新保浦ヨリ浜住村迄ヲ三里浜ト云リ。此行程二里廿九町,幅九百間アリ」とあり,九頭竜川河口以南の三国町新保より丹生山地北端の福井市浜住町までの長さ約11.5km,最大幅約2.5kmに達する。浜名の由来は「帰雁記」に「米の浜といふは免鳥浦といふ所より三国の辺までの汀をいへり。其間三里かほとなれば三里浜ともいふなり」とある。海岸線に並行して3列の砂丘が発達し,最高点は海抜43m,内側には砂丘特有の小凹地が数多く見られる。かつて湾入していた九頭竜川下流地帯に湾口の鷹巣段丘から沿岸流により砂嘴(縄文海進期にすでに存在が推定される)が成長し,さらに北西の季節風によって砂丘に発展した。砂の供給源は九頭竜川である。近世には製塩・イワシ地引網が行われたが,明治期にともに廃絶した。飛砂の害は甚だしく,「橋本豊橋記」は「樹木なき平砂漠にありし所,元和度より毎年冬期強度なる西風にて砂吹立て,黒目・山岸・泥原新保の三部落は之がため,耕地の大半は埋没荒地」になったと記す。農業・製塩業に従事した黒目(三国町)では,慶長検地の田畑25町1反5畝28歩が延宝3年に8町2反歩,元禄5年には4町7反3畝27歩に減少したため,困窮した百軒程が石川県加賀市海岸の釜屋集落へ移住を余儀なくされたという。植林は坂井郡天菅生(現福井市)に寄寓していた敦賀の僧大道の救民事業に始まるというが,寛永年間より砂留工事が続けられ,明治27年より大規模な植林が実施された。明治42年に陸軍が三里浜演習場を設営し,43年には三国および新保の商業資本家が三里浜牧場を開設したが,経営不振でまもなく閉鎖された。大正6~7年頃に導入されたラッキョウは昭和5年より本格的に栽培され,スイカとともに特産品となっている。昭和46年から掘込式港湾の福井新港と臨海工業地帯の造成が開始され,浜の景観は一変した。工業地帯は新保から両橋屋町(福井市)にかけて長さ約10km,総面積1,300haで,745haの工業用地が造成されたが,2度の石油危機と経済環境の変化により企業誘致に苦心し,用地の一部は国家石油備蓄基地に転用された。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7603245