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佐保川
【さほがわ】


県の北部,奈良市から大和郡山市域へ南流する川。大和川の支流。春日山原始林を水源とし,春日断層崖の北縁より奈良盆地に流出する。秋篠川合流地点から大和川合流地点までの8.0kmは,建設省告示897号による大和川の直轄管理区間で,明治27年発行の宗形吉雄「奈良県地誌」には奈良川と記されている。また「大和志」には添下郡には奈良川,添上郡には佐保川とあり,古くは,添上郡内を流れる上流のみを佐保川と称したらしい。当川の1次支川は,北部より菩提川・菰川・岩井川・秋篠川・蟹川・地蔵院川・菩提仙川・量川・高瀬川・珊瑚珠川などがあり,磯城(しき)郡川西町吐田付近で大和川に合流する。幹川流路延長は126.4km,流域面積は130.1km(^2)で,大和川水系の中では石川・曽我川に次いで広い。旧奈良市街地は佐保川およびその支流によって形成された扇状地に立地している。流域面積に占める平地率が高い佐保川は,流量も少なく古代より河道改修が行われてきた。宝亀4年2月30日太政官府案(九条公爵家旧蔵/寧遺上)に佐保川修理のことが記されている。また秋篠川合流地点でも川筋の付替工事がみられ,文禄5年,郡山城主増田長盛が郡山城外堀普請のため秋篠川の流路を大和郡山市奈良口町付近で90度屈曲させ,平城京八条大路に沿って佐保川に合流させた。そのため,平城京の羅生門跡は川床に埋没している。旧秋篠川の河道は外堀として利用され,佐保川本流は,下ツ道に沿って大和郡山市下三橋町付近まで直線状の人工河道をとる。環濠集落として有名な大和郡山市稗田町付近で大きく曲流するが,大和川合流地点まで直線状の人工河道を流下する。また,古代より河道の付替,築堤が行われてきた佐保川は,河床堆積物が厚く堤内地よりも河床高が高い天井川の特性を示す。流域は水害の常襲地域であるため,中世以来霞堤・乗越堤・請堤などが築造され,浸水の拡大を防いできた(大和平野における開発と治水)。しかし,近年佐保川沿岸の低湿地にも宅地化が進行し,遊水地が減少する傾向がある。佐保川流域は第二の奈良公園と呼ばれるほどの景勝地で,「万葉集」には「千鳥鳴く佐保の河瀬のさざれ浪止む時も無し吾が恋ふらくは」「佐保河の清き河原鳴く千鳥蝦(かわづ)と二つ忘れかねつも」「うち上る佐保の河原の青柳は今は春べとなりにけるかも」「佐保河の河浪立たず静けくも君に副たぐいて明日さへもかも」(525・1004・1433・3010)など多くの歌がある。また「蔭涼軒日録」には,南都八景の1つとして佐保川の蛍が記されている。佐保川は藤原京にまつわる飛鳥川と同じように「みそぎ川」として利用され,身を清めるための水ごりを取る川であった。江戸期,佐保川の清流は奈良晒と呼ばれた白く晒した麻布の織物業を発展させた。「奈良曝古今俚諺集」には,「般若寺佐保川水清し,この水をもって布を洗い佐保山に敷く,日を経るに従って白くなり上水白雪のごとし」と記されている。また寛政元年の「南都布さらし日記」には,佐保川で麻布を晒す職人の姿がみえる。佐保川の清流は古来より有名であるが,現在の佐保川は汚濁が進行している。水質はα中腐水性で,佐保川上流・中流ではユスリカが多い。佐保川を美化しようとする試みは戦前にも行われ,奈良市会議員であった鈴木奈良市は,大正末期から昭和初期にかけて,私財を投じて佐保川堤防に約1,000本の桜を植樹し川ざらいを実施している。現在ではその桜も残り少ない。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7605295