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蒜山原
【ひるぜんばら】


蒜山高原ともいう。県北の真庭郡八束村と同郡川上村にまたがる地域にあって,鳥取県境をなす蒜山三座の南麓に東西に広がる高原。標高450~600m。大山隠岐国立公園に含まれる。当地は洪積世中期頃,大山火山群の活動などにより北の蒜山山地,南の中国脊梁山地との間が堰き止められ,東西に細長い古蒜山原湖となり,湖底には珪藻土を含む洪積層(蒜山原層)が堆積した。その後,山陽側から谷頭浸食した旭川により乾固され,さらに下刻作用により3段の段丘と沖積平野が形成され,湖盆は東西20km,南北10kmの蒜山盆地となる。蒜山原は盆地内を東流する旭川左岸の台地であるが,蒜山高原は右岸の茅部野などを含め,この地方一帯を指す言葉としても使われる。蒜山原は上蒜山西麓を南流する湯船川以西は主として大山火砕岩流堆積物,蒜山三座南麓は崖錐と段丘堆積物からなり,表土は火山灰の風化物と腐植物とが混合した黒ボコと呼ばれる黒土に覆われる。原野は,古来より山麓の村々の採草・放牧用の入会地であったが,明治31年陸軍第4師団監督部により軍馬補充部大山支部旭川派出所が設置され林野約2,300haを買収し,盆地西端の三平山山頂から蒜山三座南麓にかけ約7里(28km)にわたり土塁が築かれ,川上(川上村)・中福田・下長田(以上八束村)などの放牧場で大正6年まで軍馬の育成が行われた。昭和10年時局の変遷に伴い蒜山原などの林野約4,600haが再度買収され,陸軍第10師団の演習場となる。第2次大戦後,旧軍財産のうち,西は明連川から東は高松川に至る蒜山原の中央部2,182haが農林省の所管となり,戦後の食糧緊急増産対策のための開拓地に指定され入植が始まる。強酸性で保水性に乏しい台地の開拓は困難を極め,離農者が続出した。開拓は昭和28年地元からの入植が認められた頃から軌道に乗り,京阪神市場への美濃早生ダイコン栽培,美作集約酪農地域指定に伴うジャージー種乳牛の導入による酪農を主とした。現在「ひるぜん大根」の名で出荷される夏ダイコンは京阪神市場の30%程度を占め,百合原放牧場・ケヤキ哺育育成牧場・犬挟(いぬばさり)畜産団地などではジャージー種乳牛などが放牧され,原野の大部分は畑地と牧野になり,農家は県道蒜山高原線沿いに散村形態で散在する。眼前の蒜山三座から遠くは大山を望み,広大な高原をもつ当地の観光開発は,昭和32年蒜山原の西端三木ケ原に県立キャンプセンターが設置されたことに始まる。同36年三木ケ原の蒜山国民休暇村指定,同38年大山隠岐国立公園編入,同45年三木ケ原と鳥取県江府町の鏡ケ成国民休暇村を結ぶ蒜山大山有料道路開通など観光施設や道路の整備も進み,昭和62年には151万人の観光客が訪れ,西の軽井沢とも称される。三木ケ原には,中国四国酪農大学校の三木ケ原牧場を囲み,国民宿舎・宿泊所・レストラン・会社の保養所・大学の寮などが集中し,上蒜山南麓の百合原にはスキー場,中蒜山南麓の塩釜にはロッジ・キャンプ場などが整備されるほか,各種の施設・別荘などが高原上に点在する。当地が湖であった名残として蒜山原の東半分,特に中福田から東に珪藻土が厚く分布し,埋蔵量は数千万tともいわれ,蒜山原東部の花園(八束村)では露天掘りで採掘されている。また,道目木から花園地区にまたがって(八束村)大小14基の円墳で構成される国史跡の四ツ塚古墳群があり,下蒜山南東麓の戸谷遺跡では先土器時代の石器が出土するなど見るべきものも多い。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7605967