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大野原扇状地
【おおのはらせんじょうち】


三豊郡大野原町から観音寺市にかけて広がる扇状地。三豊平野南部に当たる。面積約16km(^2)。当扇状地名は大部分が大野原町に存在することに由来。県境付近の阿讃山地(讃岐山脈)から流出し,観音寺市の三豊干拓地北端で燧(ひうち)灘に流入する柞田川が,山麓の井関付近近から河口まで約4kmの間に展開する,一種の浸食面である。扇状地礫層は極めて薄く,不整合面を隔てて下部に鮮新世―洪積世の三豊層群や上部白亜系の和泉層群が河崖に露出する。現在の柞田川は扇面の北部に片寄って流れ,扇面と河床の間には新しい段丘崖(沖積段丘崖)があり,大野原町の萩原寺に近い寺上橋付近では河床からの比高が約7.5mで,下から4.5mまでは三豊層群の泥岩,その上は不整合面を境として厚さ約1.8mの和泉層群起原の亜円礫からなる粗い礫層が重なり,これを厚さ約1.2mの礫混じり砂層が整合して覆う。大谷池の堤防に近い岡宮橋付近では和泉層群が河床に露出し,河崖ではその上を砂岩質の亜円礫層が覆い,さらに下流の赤岡付近では河床に三豊層群の泥岩が露出するが,これらの事実は扇面直下に下位台地の浸食面があり,その上を柞田川の扇状地礫層が被覆していることを示す。現在は柞田川や扇面南部を流れる白坂川・吉田川の回春で下刻が進行し,沖積段丘崖が扇面を掘り込む。大野原付近の貝塚には花稲貝塚,前方後円墳には萩原大塚の王塚,円墳には大野原の椀貸塚・岩倉塚・平塚・よし塚・猫塚・四角塚・豆塚・観音堂古墳・石砂古墳,中姫の赤岡古墳群の1~11号と13号墳および立石・神田の両古墳,方墳には大野原の角塚などが残るが,寛延年間には大野原村内に約170の古墳があった。条里制の遺構は主に北部に残り,中姫に大坪,残水に六反地,十三塚に三反田の地名がある。大野原開拓は寛永15年頃に津藩の藤堂高虎が派遣した生駒藩奉行で大土木家の西島八兵衛が計画し,五郷村南端の東地蔵院山と鋳物師岡の間の柞田川をせき止めて満濃池に匹敵する大池を築造しようとしたが,生駒家の国替えで工事は中止となった。井関池を完成し大野原新田を開いたのは近江の豪商平田与一左衛門で,寛永20年に西讃5万3,000石の領主山崎家治の許可を受け,翌年堤長21間,堤高6間,水面積12町歩の井関池を完成させた。池の工事中から入植者を募り,讃岐のほか伊予・河内・大坂・伊賀などから62戸の農家が集められたが,池堤防の決壊が続いて新田開発が遅れ離散者が相次ぎ,承応3年には農家16戸が残った。同年以後は丸亀藩の援助で堤防が安定し,寛文3年には平田家が当地へ移住した。補助水源としては同10年に豆塚池,延宝元年に段の池,同2年に清水池などが築かれ,元禄10年には戸数484戸・畑286町歩の集落になった。井関池の水は西部では八尺堀から山麓に並ぶ千歳池(26万140m(^3))・長谷池(17万5,200m(^3))・袂池(12万9,400m(^3))などを経て東部では柞田川から萩原の大分岐で井関・萩原の2幹線水路に分かれ,井関幹線からは鞘分岐で小山・下組・上の段の各幹線水路に分かれて配水される。井関池の東にある大谷池も井関池から水を入れる。大野原には切溜・石砂など7か所の横井,助左・八兵・柿ノ木など49か所の出水があるが,昭和4年柞田川上流に豊稔池が築造され,用水路が整備された後は出水の管理が不充分で水草が茂り湿地状になった所も少なくない。しかし,水不足が起こりやすい水路末端付近では出水も活用され,水神を祀った大出水や多くの野井戸も残る。柞田川は流域面積60km(^2),延長17km,平均勾配は上流部で100分の1,下流部で260分の1で,豪雨時には多くの支谷から一時に多量の流水が本流に集中し,下流沿岸一帯に洪水を起こした。特に昭和20年10月8日の台風時には毎秒440m(^3)の水が堤防を破って溢流し,浸水2,700戸,田畑冠水1,000haの被害を生じたが,その後も洪水が相次ぎ昭和17年から同34年までの被害額は年平均4,468万円と計算され,洪水調節のため抜本的が望まれていた。また,この川に依存する耕地1,190haの用水量は年間1,371万3,016m(^3)で,豊稔・井関など21の溜池,60の出水,171の野井戸により年間1,195万4,537m(^3)の水を確保していたが,なお183万8,479m(^3)の水が不足なので,支流前田川の車谷に多目的の五郷ダムを築造することになった。豊稔池の建設後柞田川の流量が減少し,地下水位が低下して出水の流量が減ったため揚水機を使用してきた観音寺市の柞田町・黒淵町・木之郷町などの農民が新ダム反対運動を起こしたが,昭和37~38年に河川流量と地下水位の関係が調査され,その結果,この地域の地下水面を保持するには木之郷町付近で年間約360万m(^3)の流水を必要とすることが明らかになった。そこで,これまで水利慣行の上で井関池・豊稔池に関する水利権をもたず,井関池の落ち水や漏れ水に依存していた観音寺市南部の柞田川下流沿岸地域にも新しく水利権が認められることになり,五郷ダムの分担金割当額も変更され,大野原町60%・観音寺市30%・豊浜町10%の負担割合とし,昭和39年に完成したダムの水は各地区から選出された配水委員会の管理の下にこの分担金出資の比率で配分される。当扇状地の農業ではイネ・タマネギ・キュウリ・ハクサイ・レタス・タバコ・ハダカムギ・カボチャ・スイカ・キャベツ・ナス・ミカン・ナシなどを作り,卵鶏・肉鶏・肉牛などを飼育するが,県下で屈指の生産額を占めるものが多い。製造業では縫製・製材・食品加工などの工場がある。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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