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篠山
【ささやま】


北宇和郡津島町と南宇和郡一本松町および高知県宿毛市との境にある山。標高1,065m。足摺(あしずり)宇和海国立公園に属する。地名の由来は詳かではないが,山頂付近の蓮華座(れんげざ)をとりまいて繁茂しているミヤコザサに起源するのではないかといわれている。頂上には篠山神社がある。社伝によれば,「篠山は用明天皇の勅願所にして,開基は果古念日也」とあり飛鳥期に開山したというが確証はない。かつてその神宮寺の観世音寺(現在廃寺)があった。篠山神社は,篠山権現・笹権現・篠山三所権現とよばれ,神仏習合が顕著であるが,それは中世以前にさかのぼるであろう。篠山山麓に飛来した神を山頂の弥山に移したという伝承があるので,本来山岳信仰に起源をもち,のち熊野修験の影響を受けたものと思われる。当社の祭神は伊邪那美命・速玉之命・事解之男命・木之花開耶姫命であり,江戸期の諸史料には,熊野三所権現を祀ったものと明記している。室町期には,確実な史料に篠山権現・観世音寺の名が散見する。正木(現一本松町)の歓喜光寺所蔵の寛正7年在銘の鰐口に「与州御庄之篠大権現 宗祐置之」とあり,篠権現が,室町期には,現在の御荘町を中心とする青蓮院門跡領御荘(観自在寺荘の尊称)のうちにあったことが知られる。篠山山麓一帯(現一本松町域)を領有したと思われる「宗」を通字とする御荘氏の庶氏が篠権現の外護者としてあらわれる。応仁3年紀銘の観世音寺観音堂脇立像を造立したのも「大檀那法眼宗祐」である(宇和旧記)。篠山は古歌に「篠矢筈,正木川分,松尾坂,むくず,浜中,蘆はをりのり」とあるように,予土両国の境界の1つであった。室町期にも幡多郡下山郷をめぐる予土両国の紛争はあったが,江戸期には,沖之島とともに篠山をめぐって宇和島藩と土佐藩との間に境界争いが生じている。両藩の係争の対象となったのは,篠山山頂と篠山南麓の小川平であり,明暦元年以降,その帰属をめぐって伊予側の正木村,土佐側の下山村の農民の間に闘争事件が勃発し,収拾不可能になった。翌年,篠山公事(百姓公事)となり,伊予側の幕府(寺社奉行)への目安状,土佐側の受目安状の提出ののち,万治2年11月,幕府側は調停の形で裁決の覚書を両藩へ各1通交付し,事件は落着した。そのときの決定事項は,篠権現堂と弥山は両国支配とし,神主は土佐側,別当は伊与側から出すこと,伊与側の正木村庄屋助之丞(蕨岡氏)は,往古の由緒により篠権現の大檀那の頭人であること,西小川平は土佐藩領とし,その代わりに東小川平を宇和島藩領とすること,以上3か条であった。篠山公事の際,宇和島藩側では,真吉水也・長谷川源七らに命じて篠山木図(現宇和島市多賀神社蔵)を作製させ,正木村庄屋助之丞らは江戸参府のとき持参したという。篠山相論解決後,宇和島・土佐両藩は鬮取で篠山権現の堂舎を建立している。土佐藩の建立した堂舎のなかに遍路屋が見えるように観世音寺は,四国霊場八十八か所番外札所として参詣人が絶えなかった。当寺が,観自在寺(四国霊場八十八か所第40番札所)の奥の院として尊信されたことにもよるが,古来の霊山として信仰されたことにもよろう。篠山参詣道は,江戸期に3筋あり,とくに広見の札掛から正木の御在所に至る道は篠往還と呼ばれた。また篠山越えをして岩淵満願寺(現北宇和郡津島町)へ至る篠山道という険しい四国遍路道があり,観自在寺から稲荷山竜光寺(現北宇和郡三間町)まで14里半であった(四国遍礼道指南)。旧暦9月18日が篠山祭で,多数の参詣人でにぎわう。また篠山は自然景観にもすぐれ,昭和39年3月21日篠山県立自然公園に指定され,さらに同47年11月足摺宇和海国立公園に指定された。山地一帯は国有林である。山頂付近には天然林が保存され,その植物景観は学術的にも価値の高いものである。山頂付近の蓮華座をとりまいてミヤコザサが群生し,その下にはアケボノツツジの大群落が5月に一斉に花開く。またハリモミの純林は県下三大天然林の1つに数えられる。山頂からの眺望は雄大であり,眼下に宇和海のリアス式海岸が手にとるように眺められ,遠くは佐田岬から九州の山並みまで見わたされる。山頂への登山道は北側の津島町犬除から祓川(はらいかわ)渓谷をさかのぼって登るもの,南側の一本松町正木から登るもの,それに東側の高知県楠山から登るものがある。このうち後の2つの登山道は8合目にある一本松町営の篠山荘まで車道になっている。山腹斜面は営林署の手によって植林が進められているが,かつてはうっそうたる天然広葉樹におおわれ,サル・シカ・イノシシなどの野生動物の天国であった。またその広葉樹林は地元住民に木炭の原木として払い下げられていた。篠山山系は明治期愛媛県の製炭業の一中心地であった。製炭者の多くは,国有林の払下げをうける岩松や深浦・宿毛などの炭問屋の焼子であった。焼子は生活に必要なものを炭問屋である親方から現物で支給され,山から山へと炭焼き稼業を続けていった。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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