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久米島
【くめじま】


那覇(なは)市の西方98kmの海上にある島。方言ではクミジマという。面積55.69km(^2)・周囲53.31km。ゴーヴィルの「琉球覚書」にクゥミシャン(Kou-michan),バーニーの海図にコミサン(Komisang)と見える。東半が仲里村,西半が具志川村。島は第三紀火山帯に属し,北部と南部の火山山地が第三紀堆積層によって連結され,全体はほぼ三角形をなす。北部は宇江城(うえぐすく)岳を主峰とし,南西に続く大岳,フソコ(冨祖古)岳(俗称ダルマ山)を経て,南東へ標高150~200m級の峰の続く丘陵からなり,南部は阿良(あーら)岳を主峰とする。遠く慶良間(けらま)諸島から見ると,馬の鞍のように見える。宇江城山地のすそには北部から西部,さらに南の海岸まで海岸段丘が取り巻いている。また,最西部は低平な隆起サンゴ礁地域。島の周囲はサンゴ礁がよく発達し,東方海上には海中道路のように11kmにも及ぶ御願(うがん)干瀬が延びている。その先端ウガン崎から南へ断続的にサンゴ礁が環状に続き,大きなイノー(礁池)を囲っている。西方海上には,北西端西銘崎(ハンニー崎)から南部の阿良岳のふもとタビン崎に至る9km余に及ぶ長い堡礁があり,外海の荒海に対し大防波堤を形成。その内には波静かな礁湖を抱え,多くのサンゴ礁が発達している。なお南西部の白瀬川河口沖の,ウフグチ(大口)と称するサンゴ礁の切れ目は,船舶の出入口となっている。白瀬川河口は,古来,那覇・先島・中国との交通船や漁船などの寄港地として,また台風時の避難港として要津となり,ウフンナトウ(大港)と呼ばれた。現在は,1,000t級の船舶を横着けできる兼城港がある。これら島の周囲に発達した大サンゴ礁は,着礁の魚類・貝類などの豊富な供給源となり,島民の生活を潤してきた。久米島の名は,日本や朝鮮の史書に古くから見える。「続日本紀」の和銅7年に見える「球美」は(国史大系),久米島のことといわれ,奈良期にはすでに大和との交通があった。「李朝実録」天順6年(1462)に,済州島を発した船が,「琉球国北面仇弥島」に漂着したとある(世祖8年条)。また「海東諸国紀」の琉球国之図には,九米島と記す。冊封使録では,古米山(陳侃など)・粘米山(夏子陽)・孤米(張学礼)・姑米山(徐葆光)などと見える。久米島で建造された船が,国王にほめたたえられたことを謡った「船之かわら居せ并すらおろし之時御たかへ言」(オタカベ16/歌謡大成Ⅰ)に,異称として,「かねの嶋」が見える。沖縄本島との関係は,南宋の景定5年(1264)に慶良間・伊平屋(いへや)とともに入貢したのが最初である(中山世鑑)。入貢とはいうものの,この時期は単に修交的な関係であった。島の支配者としての按司は,14~15世紀頃に伊敷索(いしきなわ)城に居を構えた伊敷索按司と,具志川城を築いた真達勃按司が始まりといわれる。両者とも島外からの侵入者といわれるが,時期やもとの土地などは不明。伊敷索按司の長男は中城(後の宇江城)按司となり,次男マニヨク樽按司は具志川城の真達勃の子真金声を追放して具志川按司となり,三男笠末若按司は登武那覇(とんなは)城を居城とし,全島を親子で支配した。しかし,笠末若按司は父親によって亡ぼされ,中城と具志川城は尚真王(1477~1526在位)の中山軍に攻略され,伊敷索按司も行方知れずとなり,久米島の按司時代は終わった。政治組織としての間切制度の始期は不明だが,久米島は具志川間切と久米島中城(なかぐすく)間切の2間切で首里王府支配のもとに統治された。のちに久米島中城間切は仲里間切と改称された。久米島は森林が多く水源に恵まれ,また代々の地頭代などの為政者は多くの溜池や用水溝の構築に尽力してきたため,古来有数の米所として知られた。耕地の主体は水田で,生産された米のほとんどは貢租として上納させられた。「おもろさうし」には,「くめ」「くめのしま」と見え,巻21の「くめの二間切おもろ御さうし」の114首をはじめ巻11・13などに,久米島に関するオモロがある。オモロには按司などをたたえたものや,君南風・久米のこゑしのなど神女を謡ったものが多い。君南風は,古くから三十三君の1人で,弘治13年(1500)尚真王による八重山のオヤケ・アカハチの乱平定に参加し,王府軍を勝利に導いた(君南風由来并位階且公事/沖縄久米島資料篇)。久米島においては全島のノロなどを統轄し,各種の祭祀にあたった。島の石高は,寛永6年3,251石余,同12年の盛増で3,677石余,享保12年の盛増で3,813石余(地方経済史料10)。万暦47年(1619)越前の人が養蚕の方法を伝え,崇禎5年(1632)に薩摩の人が織物の法を伝え(由来記),久米島紬の生産が始まった。紬織の普及は早く,17世紀中頃からはグイフ(御用布)といい,地租の一部代納物となり,近世を通じて女性の苦役となった。徐葆光の「中山伝信録」には,五穀・土綿・繭紬・白紙・蝋燭・螺魚などを産し,島に鶏・豚・牛・馬が多いとある。近世には,中国へ往来する船の寄港地として,兼城(かねぐすく)港・儀間港・真謝港などが重要な位置を占めた。また近世末には外国船も多く来航し,食糧などを補給した(球陽)。明治12年全島を統轄する久米島番所が置かれ,同13年久米島役所と改称,渡名喜・粟国(あぐに)などの行政をも監督した。同26年所長を那覇役所長が兼任,同30年役所は廃された。近世にはサトウキビの栽培が制限されていたため,明治12年頃には水田が多かった。やがてサトウキビの栽培が多くなるにつれて畑地も増加し,同36年には民有地総反別3,595町余のうち田653町余・畑1,059町余となった(県史20)。第2次大戦後はさらに製糖が盛んになり,昭和35年大型製糖工場設立や同38年の大旱魃,農業基盤整備事業の進展や機械化,パイナップル栽培の衰微などによって,水田もことごとく畑に変わった。農業はほとんどサトウキビ単作となり,同58年期には産高10万7,000tに達し,島の経済の中心となっている。また久米島紬も,大正期には砂糖とならぶ重要な物産となり,大正12年には4万2,000反余にもなった。第2次大戦前は一時期産高が減少し,壊滅の危機に陥った。戦後は次第に産高も増加し,昭和47年には7,000反余にもちなおし,同55年には県の無形文化財に指定された。沖縄本島に比べ戦争の被害は少なく,古くからの民家や自然景観が残る。こういった自然や歴史的遺産の保全を図るため,同58年には県立自然公園に指定され,那覇から船で4時間,飛行機で30分の便利さもあって,近年観光面でも注目されている。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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