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古墳が教える時代の移り変わり


古墳が教える時代の移り変わり

◎古墳は大和政権が日本を統一した証拠

 3世紀後半、高い丘と深い濠をもつ「古墳」と呼ばれる墳墓が畿内から瀬戸内にかけて出現し、4世紀末には巨大化しながら全国へ広がっていった。古墳には、弥生時代の墓制のような地域色は見られず、画一的で全国共通であるところに特徴があった。

 古墳に埋葬される人物は豪族の首長であり、後継者が、死んだ首長の霊を祀る目的で築造するわけだが、これを完成させることで、新首長として正式に公認されることを意味する象徴的構築物でもあったようだ。また、古墳の出現は、大和政権(朝廷)成立の証拠でもある。

 異なる地域が墓制を共有するのは、そこに何らかの深いつながりが存在したからで、畿内から瀬戸内にかけて広域な政治連合(大和政権)が結ばれたとみるのが妥当だろう。ちなみに連合がつくられたのは、朝鮮半島からの先端技術や物品を輸送するための、交通路の安全化が目的だったとする説が有力だ。そして、4世紀半ばまでに古墳は全国へと拡散していく。いうまでもなくそれは、大和政権が日本を統一した証拠だといえる。

◎権力者の墓から有力農民の墓へ

 この時代、3世紀後半から7世紀までを古墳時代と呼び、古墳の変遷によって前・中・後期に区分される。以下、いくつか特徴を紹介しよう。

 前期は、副葬品として銅鏡や腕輪などが出土することから、埋葬者は司祭者的性格を有していたと考えられる。だが、大和政権が武力で統一を進めてゆくようになると、副葬品の中心は武器や馬具になり、埋葬者の性格が軍事的統率者に変わっていったことがわかる。

 後期の6世紀になると、古墳の性質は根底から変化する。有力農民が古墳をつくりはじめたからである。古墳の数は飛躍的に増加し、群集墳といって、狭い範囲に数百もの小古墳が集中することも珍しくなくなる。

 たとえば、和歌山市の岩橋千塚には、およそ600もの小古墳が群れている。

 また、前・中期の埋葬施設は、「竪穴式石室」といい、大きな穴の四壁を石や粘土でかため、木棺を安置して埋めたが、後期に入ると、出入り口を設けて追葬を可能にした「横穴式石室」が一般化し、家族合葬墓としての傾向がいっそう強くなる。

 しかし古墳は、火葬の普及とともに衰退、7世紀後半にはほとんど見られなくなった。




日本実業出版社
「早わかり日本史」
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