相川村(近世)
江戸期〜明治22年の村名。常陸国久慈郡のうち。古くは当村と上金沢村・下金沢村の3か村を関田郷と称し(水府志料),元禄年間までに相川新田村を分村したと思われる。はじめ佐竹氏領,のち慶長14年からは水戸藩領。村高は,寛永12年「水戸領郷高帳」533石余(ほか新田1石余),「元禄郷帳」862石余,「天保郷帳」900石余,「旧高簿」560石余。「水府志料」によれば,大子【だいご】組に属し,戸数48,村の規模は東西32町・南北1里34町。天保13年相川新田村を合併(新編常陸)。佐竹氏の家臣野内氏の城跡を田としたが,大きな白蛇が出て荒廃したので,野内氏の子孫が200年絶えていた祀を復して小祠を建てると,以後は良田になったと伝える(同前)。神社は越方明神(同前)。明治4年茨城県,同11年久慈郡に所属。明治22年依上村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7271058
最終更新日:2009-03-01