青物町(近世)
江戸期〜明治8年の町名明治4年からは小田原駅を冠称江戸期は小田原城下の町人町脇町10町の1つ当町と一町田町・台宿町・大工町・須藤町・竹花町の6町は矢倉沢往還沿い南北に連なる東は唐人町,西は大手小路,北は両町を隔てて一町田町,南は高梨町町名は,もと野菜市が立ったことによるという(新編相模)宝暦年間の小田原藩賄方に当町の甲州屋久五郎と樋口屋藤兵衛がいる(真鶴町重要文化財5)鎮守は宮前町の松原明神社元禄16年の大地震で全戸倒壊し,天明2年および嘉永6年の大地震でも大きな被害をうけ,また文化14年の大火では町中全焼となった「新編相模」によれば,東西43間・南北1町28間余,家数46軒,ほかに店借4軒人足役14人を負担,安政6年には人数179(明治小田原町誌)明治8年小田原駅万年町の一部となる
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7302058
最終更新日:2009-03-01