穴部村(近世)
江戸期〜明治22年の村名。相模国足柄下郡のうち。寛永10年・元禄10年・幕末ともに小田原藩領。村高は,「元禄郷帳」62石余,「天保郷帳」「旧高旧領」とも121石余。なお貞享3年朱印高62石余(御引渡記録)。小田原宿定助郷村。元禄7年の助郷帳には大助郷として村名が見え,その勤高62石(酒井家文書/県史資9)。検地は万治2年。小田原領西筋村々高ノ帳によれば,寛永初年の村高55石余,家数13軒うち名主1・本百姓4・わきの者8(神奈川叢書9)。貞享3年の村明細帳によれば,村高115石余,その反別20町余うち田4町6反余・畑15町4反余,家数22軒うち名主1・組頭1・本百姓11・水呑6・山伏2で不明1,人数119,馬7(稲子家文書/県史資9)。「新編相模」によれば,江戸から21里6町余,東西7町20間・南北4町46間,家数32軒,飛地は穴部新田に2反余,鎮守は姥権現社,寺院は当山派修験竜覚寺・秀宝院,竜覚寺前は幕府代官簑笠之助の陣屋跡にあたる。用水は狩川を利用。もとは当村域で引き入れていたが,河道の変更により上流飯田岡村から穴部堰で引き入れた。同堰は当村以下近隣10か村の用水に利用。明治4年小田原県から足柄県を経て,同9年神奈川県に所属。同22年富水村の大字となる。
解説文を自分にメール![]()
メアド:Milana@docomo.ne.jp
(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7302121
最終更新日:2009-03-01