ケータイ辞書JLogosロゴ 香川郷(中世)


神奈川県>茅ケ崎市

 平安末期〜戦国期に見える郷名。相模国高座【たかくら】郡大庭御厨のうち。天養2年2月3日の官宣旨によれば,前年9月に源義朝による大庭御厨侵略事件が起こり,義朝と結託した清原安行や在庁官人が御厨内に乱入し「当御厨内字殿原・香川両郷」に対して,宣旨や国判に背いて国役をあて課した(天養記/県史資1-古778)。また同年3月4日の官宣旨案には,殿原・香川郷に対する妨害がやまず,国役の勘責も厳しいため,わずかに残っている住人も逃脱するという状態であると記されている(同前古782)。この事件の結末は不明であるが,その後の治承の内乱・寿永の内乱においては大庭御厨内の諸武士は,源平の二手に分かれて戦っており,当地の出身と思われる「香川五郎」は平家方の大庭景親に従っている(平家物語)。また承久の乱で活躍した鎌倉方武士のなかに香河小五郎・香河三郎の名が見える(吾妻鏡承久3年6月18日条)。貞和3年4月7日足利直義裁許状写に,鎌倉期には「相模国南香河村」は長井氏によって伝領されていた旨が記されている(遠山文書/県史資3上‐3976)。また「神鳳鈔」には「享徳元年経見代被成庁宣等」として「同堤郷……香河全五郎押持」とあり,伊勢神宮領大庭御厨の支配は在地武士の成長によって崩されつつあった(茅ケ崎市史1)。神宮はそれをくいとめようと,太田資清に「香河方・室田方并武蔵飯倉」の上分を厳密に沙汰するよう要請していることが応仁3年正月26日荒木田氏経書状案に見える(内宮引付/県史資3下‐6311)。なお戦国期の「役帳」には,小田原北条氏の江戸衆(河越衆)吉田又三郎の所領役高として「拾貫九百七拾三文 東郡 香川」が見える。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7302770
最終更新日:2009-03-01




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