ケータイ辞書JLogosロゴ 青沼郷(中世)


山梨県>甲府市

 南北朝期〜戦国期に見える郷名。山梨郡のうち。「和名抄」に見える郷名であるが,平安末期から鎌倉期にかけては文献上にその名は見えない。中世に入っての初見は,観応3年9月21日付藤原俊行・源遠信連署打渡状写で,観応2年の足利尊氏と直義との争いである観応の擾乱に際して,尊氏方であった甲斐国守護の武田信武に従って軍功をあげた金子光泰に対して,その恩賞として「青沼郷」内の逸見甲斐入道跡が充行われている(毛利家文書4/大日古8)。これによって鎌倉末期には当郷が武田氏庶流の逸見氏の所領であったことがわかり,かつ逸見氏が南朝方として武田氏と対立していく過程で,安芸国守護も兼任していた武田信武の被官である金子光泰に新たに充行われたのである。金子光泰は孫十郎・平内左衛門尉と称し,安芸国温科村の地頭職を相伝していた旧族であるが,武田信武に従って関東で転戦しその行賞として,闕所地であった青沼郷の下地を付与されたのであった。その後の甲斐国側の史料に金子氏の具体的な動向を示す記録および現地への直接入部の形跡はみられず,代官を派遣しての遠隔地散在所領の1つにすぎなかったと推定される。ついで当郷が記録に見えるのは,貞治3年2月15日付の一蓮寺々領目録であって,時宗の甲斐国道場として郷内の一条小山の地にあった一蓮寺に対して,守護武田氏が寺領安堵した目録の中に,「青沼郷内坂田三段 淵名孫五郎入道香阿女子称阿寄進」と見える。淵名氏については詳しい系譜がわからないが,この目録に見えるほかの寺領寄進者は,その大部分が武田惣家ないしその庶流であるところから,武田氏庶流の国人領主であったと思われる。郷内の坂田は江戸期遠光寺村の中に見える字名であって,当郷が荒川左岸に接していたことが知られる。その地3反の寄進地は必ずしも多いものではないが,先にみられた安芸国人の金子氏らとともに,青沼郷内が甲斐国内の在地領主層にも分給されていた状況がわかり,この時点での青沼郷の領域ははっきりしないものの,「和名抄」にみられたごとく,依然としてかなり広域にわたる郷名であったことを推定させる。南北朝期の以上の2点を最後に,その後金子氏・淵名氏・一蓮寺ともに関連する記録は見えず,それ以後の当郷の動向は明らかでない。わずかに明応8年12月14日に没した人の名が「一蓮寺過去帳」に見えるのみである。しかし武田氏の戦国大名化が進行する過程で,永正16年に武田信虎がこの地に治所を移し,新たに城下町を建設したことによって,当郷の北部は城下町に組み込まれ,西南部も城下に隣接する在郷として直轄領化されていったと推定される。永禄4年閏3月吉日の府中八幡神社宛の武田晴信禁制によれば「十四番……青ぬまの禰宜」とあり,青沼郷内の郷社山王権現の禰宜も番役に組み込まれ府中八幡で国内安穏の祈祷の勤仕を命ぜられており,武田氏の府中城下町における神社支配の一角を担っていた状況が知られる(八幡神社文書/甲州古文書1)。天正10年3月に武田氏は滅亡し,その後徳川家康が甲斐へ入部し,新領主として領内の再編成を行うが,その過程で,青沼郷は,まず同年8月17日に市川内膳に35貫文が充行われ(譜牒余録/同前),8月20日には山下内記に10貫文が与えられ(同前),翌11年閏1月14日には青沼昌世に15貫文(記録御用所本古文書/甲州古文書3),6月2日には諸星政次に9貫文が与えられている(同前)。いずれも武田氏旧臣で,徳川氏に臣従して代官層に登用されたものに対する新知行の充行であって,武田氏直轄領の分与の一環であった。その後,文禄3年に浅野長政が新たに一条小山の地に甲府城を建設したのにともなって,その周辺は城下町として再編成され,青沼郷もこれによって東青沼村・西青沼村に二分され,それぞれ近世村落として石高も確定されていく。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7334938
最終更新日:2009-03-01




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