畔村(中世)
室町期から見える村名。山梨郡のうち。「一蓮寺過去帳」の永享の頃「以阿弥陀仏 畔村 二月九日」が見える。永禄11年6月28日の武田家印判状で,信玄は「畔村番匠」の善三郎に対して家1間分の普請役を免除しており(山下勘四郎家文書/甲州古文書1),ついで「武田家過去帳」の元亀2年11月20日に没した者の注記に「中郡アセムラ加賀美七郎右衛門内方」と見える。当村は甲府の南方の出入口に当たり,中道【なかみち】往還沿いの集落である。天正10年3月の武田氏滅亡後,新たに入部した徳川家康によって,まず同年8月19日に村内の住吉神社の神主宛に,畔村300文が安堵されており(住吉神社文書/同前),ついで天正11年4月19日の印判状写によって,同じく住吉神社宛に畔村300文が再安堵されている(同前)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7334999
最終更新日:2009-03-01