ケータイ辞書JLogosロゴ 箱原村(近世)


山梨県>鰍沢町

 江戸期〜明治8年の村名。巨摩郡のうち。西河内領に属す。はじめ幕府領,のち甲府藩領,享保9年からは幕府領(市川代官所など)。村高は,「慶長古高帳」98石余,「宝暦村高帳」117石余,「天保郷帳」「旧高旧領」ともに119石余。文化初年の戸数54・人口262(男127・女135),馬3(国志)。文化初年の1戸当たり持高は2石1斗余で,河内領諸村の中にあってはやや恵まれているといえよう。その理由は大柳川氾濫原の水田にあり,近郷随一の水田面積を有しているからにほかならない。南の山地は固い岩盤の上に立地し,稗・粟・黍・桑・蜀黍などの畑作物をつくる。また同地は岩頭を富士川に突き出し,天神社を祀る。この辺りは天神が滝と称して富士川舟行の第一の難所とされる。この付近に砥坂【とつさか】の渡しがあり,岩間村の岩崎の渡しとともに両越【もろこし】の渡しと呼ばれるが,これは岩崎の渡しと砥坂の渡しの間が近距離であるのにもかかわらず,両度にわたり富士川を行き来する不便さを嘆いていったものである。なお,貞享年間に南部の川岸を切って西島村に至る歩行路を開き,これを鑿通【きりどおし】新道と称し,「国志」は「両越ノ渡ニ係ラズ其ノ道尤モ便ナリ」と記す。寺院は日蓮宗長見山本能寺があり,はじめ真言宗道場であったが,天正元年頃に乗蓮坊日恵が日蓮宗に改宗したという。幕末期に農民依田万兵衛が私塾を開き,慶応2年の生徒数は20人という。明治4年山梨県に所属。同8年五開村の一部となる。
解説文を自分にメール
メアド:Milana@docomo.ne.jp

(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7336963
最終更新日:2009-03-01




ケータイ辞書 JLogosトップ