柳川村(近世)
江戸期〜明治8年の村名。巨摩【こま】郡のうち。西河内領に属す。はじめ幕府領,のち甲府藩領,享保9年幕府領。村高は,「慶長古高帳」65石余,享保9年村明細帳57石余,「宝暦村高帳」71石余,「天保郷帳」「旧高旧領」76石余。享保9年村明細帳での反別は田2町余・畑24町余,戸数53・人数231(男112・女119),馬24。文化初年の戸数51・人口231(男110・女121),馬9(国志)。享保9年村明細帳によると,畑作物は大豆・小豆・粟・薯・大根・稗・木綿・高麗などを産し,村として川鮎を運上しており,農間に馬持は駿河国から塩を荷駄にかけて甲府・小笠原両所へ出売,そのほかの者は早川入・新倉・湯島辺へ塩・茶・酒・穀物を出売,女稼ぎは太布・木綿などをつくる。また,木挽10人・杣3人・馬医1人がおり,紙漉舟役7升2合を2名の者が上納している。氏神は鈴鹿大明神で6月・9月に祭礼,ほかに山神社・山宮神・大道領・たろ坊・伊勢大神・稲荷などの社を祀り,寺院は永禄5年正因坊日後の開山という日蓮宗柳川寺があり,除地高1斗5升余。享保9年と文化初年を比べると馬数が著しく減っており,これは荷駄稼ぎの減少をも意味する。地内里沢に湯が湧出し,けがをした人や馬が湯治したという。明治4年山梨県に所属。同8年五開村の一部となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7337410
最終更新日:2009-03-01