浅利村(近世)
江戸期〜明治22年の村名。石見国那賀【なか】郡のうち。江戸期は幕府領大森代官所支配地,天明5年〜寛政4年は浜田藩領。波積【はづみ】組に属す。「石見国高郷村帳」の村高は147石余,江戸中期から海岸地帯の開削が進み,「天保郷帳」では192石余。邇摩【にま】郡今浦の今浦船表番所の修復や建替,その他の経費を負担する6か村の1つ。麦と甘藷が主であるが,近世後期の甘藷は重要な食糧であった。字塚にある井戸平左衛門(大森代官)の遺沢碑は,この地方でも比較的早い文化6年の建立である。寺社には,黄檗宗浅利寺・真宗西方寺・寄江大明神・福富明神がある(八重葎)。浅利寺は,天平宝字2年行基の開基と伝え,村の中央,日本海を見おろす山腹にある。慶応2年〜明治2年は長州藩預り地。明治9年島根県に所属。当時の戸数335・人口1,775,漁船16艘があり,ウニ400貫・サバ1,420貫・アジ310貫・イワシ4万2,860貫を水揚げし,干鰯は防長芸備摂播地方へ移出した(皇国地誌)。甘藷と麦作中心の,この地域に明治中期島田慎二郎によって養蚕業が導入され,桑園化が進んだ。同21年県立養蚕伝習所が設立され,石見の海岸地帯へ養蚕業普及の推進力となった。同22年那賀郡浅利村となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7410500
最終更新日:2009-03-01