跡市村(近世)
江戸期〜明治22年の村名。石見国那賀【なか】郡のうち。江戸期を通じて浜田藩領。跡市組に属す。慶長7年8月中坊飛騨守の検地があり「石見国那賀郡阿刀庄御検地帳写」の一部が残存。村高は「石見国高郷村帳」1,124石余,宝永元年の年貢免状では1,209石余,「天保郷帳」では1,220石余,天保5年の年貢免状には1,214石余とあり,免は0.596。戸数・人口は延享3年175・1,392,天保7年316・1,585,明治3年341・1,634。那賀郡・邑智【おおち】郡のうち跡市組に属す36か村を統轄する浜田藩の代官所が置かれていた。跡市組の中心で早くから町場を形成していたため,阿刀市・跡市といわれ,牛馬市もたてられた。寺社には禅宗慈光寺・浄土宗西方寺・真宗蓮教寺・同西楽寺,八幡宮・金口大明神がある(八重葎)。慶応2年〜明治2年は長州藩預り地。明治9年島根県に所属。「皇国地誌」によると,戸数347・人口1,605,うち商業を主とするもの46戸・工職39戸・絞油業2戸など,町場の特徴が見られるが,産物では麻598貫・コウゾ1,000貫・ハゼ280貫・桐油8挺など,山村としての色彩も濃い。同22年那賀郡跡市村の大字となる。
解説文を自分にメール![]()
メアド:Milana@docomo.ne.jp
(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7410526
最終更新日:2009-03-01