有福(中世)
南北朝期からみえる地名。在福とも書く。石見国那賀【なか】郡のうち。貞応2年3月の「石見国田数注文」(益田家文書/鎌遺3080)那賀郡の条に「にのかうの内あうふく かしき 三丁五反百廿歩」とみえるが,「にのかうの内ありふく」の部分は後代の書込みと考えられ,また「同文書」邇摩【にま】郡の条に「□□(ありカ)ふく 三丁三反小」とあるのも「□ふく」の誤りで,いずれも「有福」の初見史料とはいえない。明確な史料的初見は南北朝期の暦応5年2月の「越生光氏軍忠状」(萩閥121)で,「有福五分一地頭越生七郎光氏」とみえる。ところが,貞和7年2月の「越生義氏言上状」(同前)には「加志岐別府五分一地頭越生七郎次郎義氏」とあって,「有福五分一地頭」と「加志岐別府五分一地頭」とが同じ内容であることが推定される。「加志岐別符」は鎌倉から南北朝期にみえ,これ以後史料の上から姿を消すことからすると,有福は加志岐別符の後身と考えてよいであろう。越生氏が有福地内加志岐城によったため地名の混用が生じ,また地名の変更が生じたのであろう。至徳2年7月22日付,「大内弘茂預ケ状」(同前)には「有福村」とみえ,年月日未詳(戦国期)の「吉川広家領地付立」(吉川家文書/大日古9)にも「百貫 有福」とみえる。中世末期より有福(上有福)と下有福とに分かれたとされているが,文書によってこれを確かめることはできない。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7410584
最終更新日:2009-03-01