猪尾谷村(中世)
鎌倉期からみえる村名出雲国大原郡大西【だいさい】荘のうち,嘉暦2年2月24日付の「沙弥覚法注進和与状」(佐草家文書/旧県史6)に「出雲国猪尾谷村東方内一分地頭職,田畠並屋敷野畠溝以下」とみえるのが初見「佐草家系湾」(同前)によれば,佐草信成は「大原郡大西庄猪尾谷村地頭飯沼新三郎源親泰(法名覚法)」の妹を妻(源氏女・千代女)とし,その所領していた猪尾谷村東方内一分地頭職の領有をめぐって飯沼氏と相論が生じたらしく,一度はこの和与状に従って同年4月23日に「六波羅下知状」(同前)も出されたが,なお決着がつかず,建武元年12月8月付「出雲国司庁宣」,同3年4月21日付「出雲守護塩冶高貞施行状」,同年6月25日付「出雲守護塩冶高貞安堵状」(いずれも同前)などを経,暦応3年12月13日付の「足利直義御教書」(同前)によってようやく解決をみた当村は東と西とに分かれ,その全体の地頭職を飯沼氏が所有し,東方の内の一部を佐草氏が領有するという関係が成立していたと考えられる現在の大原郡加茂町猪尾の東北に「谷」という地名があり,当村はあるいは「猪尾の谷村」と考えるべきものであるかも知れない
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7410775
最終更新日:2009-03-01