上橋波村(近世)
江戸期〜明治22年の村名。出雲国神門【かんど】郡のうち。江戸期は松江藩領。村高は「大数録」では230石,また寛文〜宝暦4年の間が233石余,宝暦11年が246石余(佐田町史),「天保郷帳」は233石余。宝暦4年の「神門郡万指出帳」による戸数39・人口206,うち男106・女100ですべて農家。明治4年島根県に所属。「皇国地誌」によると,田17町余・畑10町余・山林15町余で,戸数43・人口191,うち男103・女88。農29・薪炭14,牛33・馬5。土質は比較的良質で米作に適しており,桑・茶の栽培があり,苧の収穫量も多く900貫を郡内大池村へ移出している。中央を流れる橋波川は舟・筏を通さず,周りも山で囲まれ交通の便はきわめて悪い。明治18年に下橋波にあった分教場が上橋波に移転し,山口小学校上橋波分教場となったが,同19年に下橋波に新校舎が完成し,再び下橋波に移った。明治22年神門郡山口村の大字となる。同年の戸数43・人口191。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7411529
最終更新日:2009-03-01