青柳荘(中世)
南北朝期〜戦国期に見える荘園名。美作国苫東郡のうち。杣名でも見える。建武3年11月26日の足利尊氏寄進状(本圀寺文書/南北朝遺中国四国541)によれば,足利尊氏は本圀寺へ造営料所として美作・安芸・石見3か国22か所を寄進しているが,そのうちに「美作国青柳庄 粟倉庄」が見える。貞和2年5月19日の室町幕府執事高師直下知状(下鴨祠官蔵南狩遺文)に「鴨社遷宮美作国青柳杣採并山河率分,津々関々煩停止事」と見え,鴨社(下賀茂)遷宮のための用材が当杣内から切り出されている。その後,文和2年6月1日の足利義詮寄進状(園城寺文書)では,近江の園城寺へ「青柳庄地頭職」が寄進され,翌3年4月8日の足利義詮袖判下文(佐々木文書)では,当荘などが勲功の賞として佐々木道誉(京極高氏)に宛行われている。明徳3年4月23日の室町幕府管領(細川頼元)奉書(同前)によれば,当荘について赤松越後守への下文を召し返し道誉の孫京極高詮に安堵すべしとの命令が下されている。戦国期になって,「蔭涼軒日録」長享2年7月28日条(続大成)に「恵林院領作州青柳庄」と見え,15世紀末には京都相国寺の塔頭恵林院の寺領となっていた。同書には長享2年・延徳元年・同2年・同4年・明応元年にかけて当荘に関する記事が散見される。長享2年10月20日条によれば,当荘など美作国の相国寺領所々の所務を後藤則季が強引に行ったというが,間もなく則季は正式な代官職に補任されたらしく,以後彼が当荘の所務代官として所務を行ったことが同書に見えている(同前)。延徳2年12月14日には相国寺領所々公用が分配されているが,恵林院の「青柳庄領家分」は20貫文で,そのうち10貫文は去年分,10貫文は今年分であった(同前)。同4年9月8・9日条によれば,この頃渋谷左京亮が当荘本役を違乱しており,相国寺側は守護赤松氏,その被官上原祐貞・別所則治などへ種々働きかけた様子がうかがえる(同前)。明応元年12月26日条を最後に当荘のことは「蔭涼軒日録」には見えないが,「鹿苑日録」明応8年10月27日条に「恵林院領同(美作)国青柳」と見え,この頃まで恵林院領として存続したらしい。下って,永禄3年霜月大吉日の年紀を有する曲げ物太鼓胴内側の銘(県文化財総合調査報告21)に「作州賀茂青柳之庄阿波谷八幡宮たひこ」とある。なお,弘治3年5月14日成立という「美作国献上記」(美作古簡集註解下)には東北条郡六郷の1つとして「青柳庄 檜皮千寸 茨田利安」とあるが,同史料は検討を要する。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7414402
最終更新日:2009-03-01