ケータイ辞書JLogosロゴ 浅越荘(中世)


岡山県>岡山市

 平安末期〜戦国期に見える荘園名。備前国上道郡のうち。陽明文庫所蔵「兵範記」仁安3年夏巻および嘉応元年12月巻の裏文書に,年欠8月12日の権大僧都某書状,年欠8月13日の権大僧都実□書状,後欠の平信範書状案があり,その中に「浅越御庄」と見え,現地から当荘の旱損による年貢減免を訴えていたことが知られる(平遺4840〜4842)。下って南北朝期の延文元年頃には藤大納言三品が当荘の知行権を与えられており,当荘の支配を知任に命じたが,有名無実の状態だったという(京都御所東山御文庫記録)。応安5年6月17日には西大寺法印円慶が文和2年2月18日に寄進された当荘内の地などを成光寺に再寄進している(西大寺文書)。永徳3年3月21日の仁和寺宮法守法親王高山寺置文案(高山寺古文書/高山寺資料叢書4)によれば,当荘は高山寺領で,同寺の清水房が奉行となっており,土貢の3分の1が奉行の得分であった。正長元年9月6日の仁和寺宮永助法親王令旨(高山寺古文書)によれば,高山寺閼迦井房と東坊が「浅越庄寺用之内,御寄進惣寺分」の催促を命じられている。下って,永享7年2月21日,足利義教が当荘などを天竜寺金剛院に安堵し(鹿王院文書),文明10年5月28日には足利義政が当荘などを金剛院に返付しているが(同前/大日料8-10),同12年12月5日の室町幕府奉行人連署奉書案(高山寺古文書/高山寺資料叢書4)によれば,高山寺の訴えにより,金剛院に当荘の年貢65貫文を納めるよう命じられているので,高山寺が本家,金剛院が領家と考えられる。しかし同14年12月14日の室町幕府奉行人連署奉書案(高山寺古文書)によれば,当荘の年貢は毎年無沙汰であったという。なお文明13年7月17日の山名政之書状(塚本文書)では,「備州朝越内〈とかの尾殿,小津下村末数名〉」を宍甘与三左衛門尉に給分として宛行い,忠節を要請している。戦国末期と推定される11月16日の浦上政宗書状(鹿王院文書/東大史料影写本)によれば,政宗が金剛院に対して「浅越庄公用銭」を請け負っている。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7414459
最終更新日:2009-03-01




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