亀石村(中世)
鎌倉期〜南北朝期に見える村名美作国英多【あいだ】郡河会郷のうち正応元年6月27日の関東下知状(岡元家文書/入来文書)に「美作国河会郷□(内)亀石土師谷両村」と見え,渋谷重継の弘安9年の避状を認め,弟重村の知行を安堵している正安元年8月17日の渋谷重世譲状案(岡元家文書)に「一所みまさかの国かわへ十丁南内かめいし・はしたにの村,しゝさかひ,本せうもんにみえて候」とあり,重世から子息へ譲られているさらに建武元年12月19日の渋谷定円(重基)外六名連署和与状(同前)によると,「美作国河江庄内亀石・土師谷田畠山野」と見え,重氏の遺領を巡って重氏女子と重躬子息重時との間で相論となったため,合議により同所領証文などを女子方に付したことが記されているなお当地は備前国に接しており,嘉元2年9月20日の六波羅下知状写(八塔寺文書)によると,美作国八塔寺衆徒と備前国藤野保地頭代との間で,その境を巡って相論となるが「次美作国河井領亀石云云所者,依為四方一里内,自寺中雖令採材木許之,至下地者,地頭方進退之条勿論也」とあり,当地の竹木などの採取権は八塔寺が持っていたことが分かる現在の英田町滝宮字亀石に比定される
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7415854
最終更新日:2009-03-01