ケータイ辞書JLogosロゴ 河会郷(中世)


岡山県>英田町

 鎌倉期〜戦国期に見える郷名。英多郡のうち。鎌倉期には保名でも見え,南北朝期〜戦国期には荘園名でも見える。「猪熊関白記」正治2年3月30日条(古記録)に,「大江氏与光義相論鴨御祖社領美作国河会保領主理非事」と見え,この頃鴨御祖社(下賀茂社)領であった当郷を巡って,大江氏と光義との間に相論があったことが知られる。同書同年4月3日条(同前)では近衛家実から記録所の勘状に従って裁許するよう命じており,大江氏の方に理があったものと推定される。当郷に地頭職を持っていた渋谷氏は,鎌倉期〜室町期にかけて残る譲状に当郷について記している。寛元3年5月11日の渋谷定心置文(入来院家文書)に「一,公事田数事 河会郷本田数参拾壱町弐段〈配分也〉」と見え,当郷の公事は,三郎明重に17町(4反脱か),四郎重経に2町3反,五郎重賢に4町,二郎三郎重純に7町5反が配分されている。ここに見える渋谷定心は,渋谷重国の子光重の五男であり,渋谷氏としては庶流にあたる。翌寛元4年3月29日の四郎重経への渋谷定心譲状案(同前)には「一所美作国河会郷十町河北」と見え,四至に「東限自練金山右河流,南限同河流,西限白箸峰中安大石瀬,北限江見堺」と記されており,郷域は現在の英田町東南部の河会川北岸の北周辺に比定されよう。建長2年10月20日の渋谷定心置文(同前)では当郷分17町4反が三郎明重分に定められている。この置文に基づいた建長5年11月29日の同譲状で,再度当郷十町北その他の所領を重経に譲っており,この譲りは建長7年6月5日の将軍宗尊親王家政所下文案で認められている(同前)。これにより明重は当郷の過半を譲られたこととなるが,文永2年8月3日の渋谷善心(明重)譲状では「一所 美作国河会郷内下森自上山宮西 在四至 東限草野谷西尾通〈自今路宮尾トヲリ大足へ〉南限備前堺 西限佐備塔毛〈谷之流お切湯河へ〉北限飯岡堺」とあり,同地域が明重から有重へ譲られ,同4年6月16日の関東下知状で安堵されている(同前)。また同日付の関東下知状(岡元家文書/入来文書)によると「可令早釈童丸(静重)領知美作国河会郷内大足村并東木屋事」とあり,明重から静重への譲りが安堵されていることから,明重に譲られていたのは現在の英田町の上山・福本ないし中川・真神をも含む一帯と推定される。建治3年9月13日の渋谷定仏(重経)譲状案(入来院家文書)に「一,ミまさかのくにかわへのかうのうち,十丁のきたむらさかい」と見え,当郷内十町北村などが重経から孫の竹鶴に譲られ,翌弘安元年6月3日の関東下知状案(入来院家文書/入来文書)によって安堵されている。しかし,これに対し弘安元年8月14日の関東御教書案および同年頃と推定される年月日未詳の尼妙蓮等重訴状案,同様の渋谷為重陳状,渋谷定仏後家尼妙蓮・同重通等重訴状などによると,重経次男の重員(為重)は,渋谷氏一族の所領であった薩摩国入来院(鹿児島県薩摩郡入来町付近)の領家方の米を乗せた船が,備前国方上(片上)に着いたと聞きつけ,下人を遣わして,代官所持物20余貫文を奪い取ってしまい,それによって父定仏に義絶されてしまったという。その後,重員は追捕の手をのがれ,義絶の身でありながら遺領に乱入し,旧妻と代官を当郷内十町北村に置き同地を押領したため妙蓮・重通母子と相論となった(入来院家文書)。重員はこれに対し,自分が継母の讒言により義絶されたこと,定仏直筆の譲状を得ていることなどを主張するが,弘安2年12月23日の関東下知状案(同前)では重員方は全面敗訴している。一方弘安3年5月8日の沙弥正善(渋谷有重)譲状(同前)によると,当郷内「下森自上山宮西」の所領は有重から甥の初童丸(重基)に譲られ,正応元年6月27日の関東下知状(岡元家文書/入来文書)によると弘安9年6月8日に,重継が当郷内の「亀石・土師谷両村」を弟重村に去り渡しており,同状により重村に安堵されている。同地は,かつて,渋谷定心が五郎重賢に譲った所領で,範囲は,三郎明重分の東,四郎重経分の南側,つまり現在の英田町内の当郷の南部である。また,この10月日の渋谷明重後家尼寿阿置文案(同前)で有重跡の所領の公事配分を行っているが,そこに「一,河会郷内本郷中村・上山下村」と見える。正応3年と推定される4月21日の渋谷重村着到状(同前)によると,「美作国河会郷一分地頭渋谷五郎四郎重村,依朝原八郎事令参洛候」と見え,同年3月,伏見天皇の殺害に失敗した朝原為頼の事件に際して,当郷一分地頭の渋谷重村も参洛したことが知られる。正応4年8月28日の関東裁許状案(同前)によると「渋谷平五郎致重女子辰童与同妹弥陀童相論……美作国河会郷内下村半分」とあり,渋谷致重の女子辰童とその妹弥陀童との間で,「美作国河会郷下村半分」などの所領相論が起きていたが,同状により双方の和与がなり,安堵されている。下って正安元年8月17日の渋谷重世譲状案(岡元家文書)で,「十丁南内かめいし・はしたにの村」が「ひたち殿」に譲られている。また当郷は備前国と接しており,嘉元2年9月20日の六波羅下知状写(八塔寺文書)によると,美作国八塔寺衆徒と備前国藤野保地頭代との間で,その境を巡って相論となるが「次美作国河井領亀石云云所者,依為四方一里内,自寺中雖令採材木許之,至下地者,地頭方進退之条勿論也」とあり,当郷内亀石の竹木などの採取権は八塔寺が持っていたことが分かる。南北朝期からは荘園名でも見え,建武元年6月3日の雑訴決断所牒(岡元家文書)では「美作国河会庄十町南村内土志村田畠在家」などの当知行を安堵している。同年12月19日の渋谷定円(重基)外六名連署和与状(同前)では,重氏の遺領である当地内亀石・土師谷両村などの所領について,重氏の女子と一族の重躬の子息などとの間で所領争いがあったが,一族の総意により所領安堵の証文を女子に付すこととしている。その重基が,貞和2年11月26日の渋谷定円(重基)譲状(入来院家文書)を記し,「河会郷内下森上山村」その他の所領を嫡子重勝に譲っている。また同年月日の渋谷定円(重基)置文案(同前)では「美作国河江庄内中安駮尾田畠屋敷山野荒野等」とある。重勝は貞和5年閏6月23日の渋谷重勝同日一筆譲状(同前)のうち1通では「河会庄内下森上山大足」を虎松丸(重門)に,もう1通では「河江庄内本郷下村西方」を虎一丸(重継)に譲っている。なお,観応2年7月30日の足利直冬下文(同前)で重勝に当郷下村その他が安堵されている。次いで,貞治7年8月6日の渋谷重成譲状(入来院家文書/入来文書)では「河会庄内本郷下村西方」その他の所領を子息松丞丸に譲っている。また建徳2年10月15日の渋谷重門置文(同前)では,重勝から譲られた所領を虎五郎(重頼)に譲っているが,そのなかに「河絵(会)庄内下森上山大足」と見える。同地は応永13年11月15日の渋谷重頼譲状で子息菊五郎(重長)に,応永30年8月16日の渋谷重長譲状で子息初五郎(重茂)に譲られるが,嘉吉元年2月27日の渋谷重長譲状ではあらためて孫(重茂の子)菊五郎(重豊)に譲られている(同前)。重豊は永伝元年(延徳2年)8月21日の渋谷重豊譲状(同前)で子息又五郎に「河絵(会)庄内下森上山大足」を譲っている。下って永禄5年11月17日の河副久盛判物写(新訂訳文作陽誌下)に「河会庄内高原堂満三郎右衛門分」と見え,小坂田勘兵衛に与えられている。また永禄10年頃と推定される年月日未詳の某久秀判物写(美作古簡集註解上)では「河会之内やくしどう分小山名」が小坂田又四郎に与えられている。なお,戦国期と推定される年未詳7月5日の浦上宗景宛行状写(同前)には「一,河会庄内渋谷庶子惣領分之事」と見え,渋谷長右衛門尉に宛行われている。元亀2年11月27日の後藤勝基判物写(同前)に「河会之庄之内当光名」とあり,小坂田又四郎に宛行っている。また天正5年と推定される3月13日の豊臣秀吉直状写(同前)に「一,江見庄 一,河井……右知行分之事,山中鹿之助同前」と見え,当地が山中氏の知行であることを江見九郎次郎に伝えている。郷内の地名として史料に見える「亀石」「大足村」は,滝宮の小字亀石と上山の小字大芦大池がその遺称地と推定される。郷域は現在の英田町東南部,吉井川支流吉野川の支流である河会川流域の上山・中川・北・滝宮・南付近と考えられ,寛元3年および建長2年の置文の際の分割は,三郎明重には上山から中川にかけて,四郎重経には河会川北岸(右岸)の北付近,五郎重賢には同南岸の南から滝宮付近が分けられたと推定される。これより見ると,北・南付近の河会川両岸は十町と呼ばれていたようである。なお,永禄11年のものと推定される某久秀判物(同前)にみえた「やくしどう」は,上山の字薬師堂とかかわりがあるとみてよいであろう。また,滝宮に鎮座する式内社天石門別神社の現在の社殿は元禄10年に建立されたものであるが,その時の棟札に「嘉元三年乙巳暦後二条御宇北村地頭平重継南村地頭尼戒心」の銘があるという(英田町の文化財)。これによれば前の本殿は嘉元3年に北村の地頭平(渋谷)重継と南村の地頭戒心尼によって建立されたものということになる。明応8年8月15日には渋谷国綱が同神社に「六段田内茶薗下」を寄進している(美作古簡集)。なお,大字南には土居という字があり,その一角に土居屋敷という小字があり,その北には土居屋敷北という小字もある。ここには「美作の土居屋敷」といわれる屋敷が残っており,当主の先祖は渋谷氏と伝えている。ここに渋谷氏の屋敷があったことは充分考えられる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7415928
最終更新日:2009-03-01




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